私にとっての手をつなぐ育成会 

先週は仕事が結構過密で、朝から晩まづっと、出ごと。
締め切りを迫られている仕事も多かったので、かなり疲れる1週間だった。
このあと、残っている仕事量を考えると、魔の11月になるかも・・・・

「でも何とかなるんです。」・・・とプラス思考を心がけるようにしてます。

さて、今日で4回目、私にとっての・・・・・・
私にとっての「手をつなぐ育成会」

この活動は、私のほかのほとんどの行動の根拠になっている。
少し”遠い”と感じられる活動はあっても、結局はこのため・・・ということ。

1998年ごろ、6月の急な転勤で、東京から九州へ引っ越し。
どうやら、その時の2つ上の上司が、私の仕事に対し、なにか勘違いをして、私の行動が気に入らなかったらしいい。
左遷? こんな感じの異動だった。。。。ことを思い出す。

ここから、仕事の面では、中小企業診断士への道が始まるのであるが、

今日は手をつなぐ育成会。

異動になるすこし前、うちの祐太郎の1歳半検診で、
病院の先生に見せるよう勧められた。

その時は、何のことかよくわからなかったが、九州に帰ってきての検診で、
同じことを言われ、久留米医大に行った。

大滝先生という専門の先生に見てもらうことになった。
(当時、となりまちの小郡市にある”こぐま園”でも所長?専門の先生として勤務されていた方)

その時、「お宅のお子さんは自閉症です」という診断で、
自閉症と診断するにいたった、検査内容、自閉症という病気?について、説明があった。

家に帰り、”自閉症”を猛烈な勢いで、調べた。

”一生治ることはない”自閉症の特徴が書いてあるウェブサイトを見つけ、一生懸命勉強した。

うちの奥さんは、この診断で、何日かかなり落ち込んでいた。泣いてもいた。
私は・・・というと、よく覚えていないが、あまりにも、由美子が落ち込んでいるので、私が落ち込むわけにはいかなかったのかもしれないが、どうしたいいんだろう・・・ということだけを考えていた。

私自身の特徴かもしれないが、ほとんど悲観的になることはないタイプなので、
「自閉症なんだ」・・以外の感傷はほとんどなかったように思う。それよりも、うちの奥さんを同化しなきゃ・・・という感じだったかもしれない。

そこから、うちの奥様の活動が始まり、
ダウン症の保護者の方たちがあつまる「コスモス会」、「自閉症協会」そして「手をつなぐ育成会」の活動などに参加するようになった。

それらの会で開かれる「勉強会」「レクレーション」などに結構積極的に、夫婦で参加していた。
その中の手をつなぐ育成会のレクレーションでボーリングがあった時、(2003年ごろ?)

鳥栖市手をつなぐ育成会の役員改選で、いきなり副会長をお願いされた。

これも私の特徴であるが、頼まれたことを ”ほとんど断らない”。 
(性格上”断れない”のかもしれない。)

結局、由美子の反対もほとんどなく、副会長を引き受けることになった。
前置きが長くなったが、そこからが、「私」と「手をつなぐ育成会」の実質的な”繋がり”の始まりである。

ここから、手をつなぐ育英会のこと、自閉症という病気のこと、地域での障害者福祉に関する制度(行政サービス)、法律の変遷、問題点・・・ などなど、いろいろなことの勉強が本格的に始まった。

それから10年余りたっているので、今は、いろんなことが理解できるようになっているが、当時は、まったくの無知だったので、
活動には参加するけど、その”意味”というとほとんどわからないまま活動を続けていた。

活動を始めて2-3年たったころ、”市会議員”になろうかと考えていたころがあった。
そうすれば、仕事として”福祉”の世界をじっくり考えられるし、活動もできる。と考えたから。

しかし、由美子の猛反対で、結局その話は表には出なかった。

そこから、時間が過ぎて、2008年ごろ。会社を辞める1年前に「鳥栖市手をつなぐ育成会」の会長になることになった。

私自身、「若すぎないか」と思いつつ、引き受けることになったのだが、
そこから、手をつなぐ育成会の仕事が一気に増えた。

鳥栖市の障害者福祉計画、障害福祉計画等の策定委員。
各種福祉団体の模様しものへの参加。
佐賀県手をつなぐ育成会の理事としての活動
三神地区(神崎市、みやき町、吉野ヶ里町、上峰町、基山町、鳥栖市)の会長同しの会合 などなど。

これらのための”出ごと”がかなり増えた。
そして、今年(2011年)の5月に、財団法人佐賀県手とつなぐ育成会の副会長という役につくことになった。
県の会長というと鳥栖市のそれとは比べ物にならないくらい”出ごと”が多い。

その役のうちのいくつかを分担して、参加する活動が続いている。
会報、発表、仕切り役などなど、かなりいろんなことを頼まれるようになる。

本当に、このおかげでかなり忙しい毎日になっている。

しかし、これらの活動を続けられているのは、
やはり、活動を通じて、障害者福祉の世界をかなり理解できるようになった。
それにつれて、障害者福祉に関する”思い”もかなり育ってきた。

なので、この活動、漠然とした言葉ではあるが”障害者福祉”に対する活動が、私自身のライフワーク化していった。
出ごとが多い分、本当に吸収する部分も多い。人との出会いも多い。

わたしのライフワークが、ゴールはまだまだ遠いけど、少しずつ近ずいていっていることも感じる。
この感覚が、おそらく”忙しいから辞める”という言葉を抑えている。

仕事をいっぱい抱えすぎても、”なんとかなる”と考えてしまう。
「こんな忙しい自分に仕事を頼んだほうが悪い」、
「自分はできることをできる範囲でやるだけ」、
「これで自分がギブアップしたら、そっちのほうがみんな困るだろう」、
「完全にできなくても、おそらくみんな許容してくれる」

などなど、頭の中を、めぐってくるが、これで結局、ギリギリだけど「なんとかしている。なんとかなっている」のが現状。

とはいえ、「ライフワーク」という言葉に終着することになるが、
中小企業診断士の仕事でも、障害者福祉施設の就労支援施設の経営支援等の仕事ができているし、

どこまでできるかわからないけど、この活動を通じて、・・・そしてのこの先に・・・

私のやりたいこと、進みたい道、があるように思っている。

私の夢というと、
1.障害者を1万人雇用する企業を作ること。
2.これにより世界で、障害者の一般企業での雇用が今よりもっと当たり前になっている。
 (ノーマライゼーション)
3.そして自己満足(利己的)であるが、ノーベル平和賞でもらって、一生を終える。

これが私の今後50年の計画である。 なので、
・長生きをしないといけない。
・知識、能力をもっとつけないといけない。
・お金を動かす力がいる。

現在、不足しているいろんな能力の獲得に向けて、私の活動・行動はある。

そのすべての根拠を作ったのが、この手をつなぐ育成会の活動であり、
「無理をしない」、「できる範囲」でという言葉を肝に銘じながら、
どこまでできるかわからないけど、しばらくはこの仕事を通じてできることも続けなくてはならない。

そう思っている活動である。