私にとっての区長 No.7

また、忙しさに負けてしばらく休んでしまいましたが、改めて続きを書きたいと思います。

その前に、今日で今年も終わり。あっという間の1年間。
今年元旦に立てた計では、ほとんどは忘れてしまいましたが、「ランニングのレースに10個出場する」、「論文を書く→本を書く」がありましたが、今年も、両社両方とも達成できずに終わりました。

自分自身の行動で、間違った行動はしていないと思いますが、計画の未達成には間違いない。
したがって、こんなところからも、次の改善点を見つけなければならないと思う。

今年痛感した私にとっての最大の問題点は、自分で計画を立てたことに対して、時間を作れていなかったこと。
これが、最大の問題点。忙しく、いろんな方面から仕事の依頼があり、時間の調整に窮したうえ、結局、休みもほとんどない状態のまま1年間を過ごしてしまったような感じである。

「時間を作る」 ・・・・我々のような貧乏な個人事業者には、もっとも難しいことのような気がしますが、
「休むこと、することを決めて、計画を立て、実践していくこと」これに尽きる。
来年は、自分自身のやりたいことに、計画を立て時間をあてていきたいと思う。必ず!!!

◆さて、前置きが長くなりましたが、「私にとっての区長」とは。

今年の9月22日に私の住む「弥生が丘南区」の区長が亡くなった。
今年の6月ごろの話だったように記憶しているが、区長が具合が悪くなってきてから、私に「区長代行の補佐」という役割をお願いできなきかと当時の区長よりお願いがあり、お手伝いするだけなら、ということで、快く引き受けさせていただいた。区長も大変なんだろうとあまり深くは考えていなかった。

そして、区長が亡くなった後、会計さん、区長代理さんと3人で集まって、次の区長の話になり、もともと私に区長をお願いする予定で考えていたことが明かされた。

雰囲気としては、そうかな、と思うところは随所にあったが、私自身、通常の仕事も忙しいのに、この状態に区長の仕事が加わる?
考えただけでもぞっとする感じもあった。家族に相談すると、当然のように猛反対。

私自身も区長代理、会計のかた、それからもともとの地元の方に区長の話を持ちかけた。ことごとく跳ね返され、
結局、ここでも「お人よし」の虫が働いて、引き受けることになった。区長が亡くなってから、約1-2週間の出来事。

私は鳥栖市手をつなぐ育成会の代表を務めており、「知的障害者の地域福祉」という点では、大きな関心がある。
特に今年、東日本大震災を受けて、現場で知的障害者の方たちへのケアが著しく低下しているのが容易に推測され、
施設ではなく、地域でケアしていくことが、本当に大切であることを痛感させられた。

しかし、手をつなぐ育成会としての活動では、地域の中のどこに障害者がいるのか、正確に把握することはできない。
お恥ずかしい話であるが、最近会委員が減ってきており、地域にいるはずの若い障害児がわからない。

お年寄りのほうは、民生員を含めた活動である程度仕組みができているが、障害者のほうは、「どこにだれがいる」という情報は、手帳ベースで市の社会福祉課しかわからないようだ。

区長であれば、この辺りも把握できるのではと思い、「どうやったら、障害者のための地域福祉がつくれるか」このあたりを考えてみたい。そんな気持ちが強くなり、あくまでも区長代行としての意向を強く押し出して、区長を引き受けることにした。

しかし、なってみると、思いとは裏腹に、障害者への地域福祉はほとんど、考慮されていない。田代地区にも社会福祉協議会があるが、お年寄り向けの活動は活発であるが、障害者向けの活動は全くない。皆さんにもその間隔はほとんどないので、本当に災害に会った時の手立てはほとんどできいないという状況が分かった。

ここからが、私の仕事だと思っているが、まずは、この地域に、どの程度の障害児がいるか、そのあたりを区長としてはあくに勤め、具体的な対策を考えたいと思っている。

区長会に行くと、親子のよな年の差、年齢的におおきなギャップを感じる仕事であるが、
私の悪いところ、弱いところである、「ときどき消極的になっていしまうところ」「電話が苦手」なところなどが、そんなことを言ってられない仕事なので、改善されるような気もしている。

区長業務3カ月経過。違和感も多少ある状態が続いてはいるが、できるところまで、できる範囲で、やっていきたいと思う。
まずは、4月の次の総会ではどうするか??正月中には取るべき態度を考えなくてはならない。

おそらく、しばらく続けることになってしまうとおもうが、その意味について、もう少し考えたい。

以上。