(独り言)・・未知の世界へ・・

(独り言)・・未知の世界へ・・
知的障害(自閉症)の息子にも運動をさせる。
走ることにチャレンジさせている。
本人にとっては、何のことかわからないのだけれど、彼がどこまで成長してくれるかを見てみたい。
そう思って、運動をさせています。
重度の自閉症?重度の自閉症スペクトラムで、
うちの息子の特徴は、
「ひととのコミュニケーション能力が極端に低い」
「論理的思考能力がほとんどない」
”ひととのコミュニケーション能力が低い”ということは、
まず「言葉がしゃべれない」
「人のこころを察することができない」
「自分の感情をコントロールできない」
”論理的思考能力がない”ということは、
「これは、楽しい」「楽しくない」
「これは美味しい」「おいしくない」
「お金?」「意味がわからない」
というような、一問一答的には、感じることができるが、
「これって、こうだから、こうだよね」という、論法がわからない。
もう一つ例を出すと、
先日、くじゅうの下山途中、完全に日が暮れてしまったので、彼に懐中電灯を持たせました。
彼の足もとを照らして、自分で歩いてきてほしいと思いましたが、彼は、懐中電灯の明かりが出ることが面白いと思っているようだが、懐中電灯を使って、足もとを照らして歩く。ということをしない。
なぜか?
彼は、懐中電灯が、暗い中足もとを照らす道具であることを理解できていない。
懐中電灯を持たせて、使い方のわからない彼に、、、うーん。こうきたか。で、
最終的に、私が使っていたヘッドライトを、かれの頭に装着し、私が懐中電灯をもって、真っ暗な山の中、彼の足もとを照らしながら下山したしだい。
(でも、くじゅうの空の星はとっても綺麗でした)
こういう彼だから、彼のような人多たちの多くは、おとなしく生活できる環境を与えられる。
そこから、彼らの成長はない。じっと暮らす。
自閉症の子供、人は、こんなもん。
こういうことはできない、
こんなところでは生活できない。
自閉症の専門家らからも、論文を見ると、そういうレッテルが張られている。
でも、うちの子は、というか、こういう子、人も必ず成長する。
その機会さえ与えてあげられれば、必ず。
成長の方向性は、その子ども、人の性格、能力によっても、それぞれである。
うちの子には、何ができる?
全く暗闇のなかで、他の自閉症の子供のじれいなんか、全く通用しない。
この子は、この子、あの人はあの人。 人それぞれの特徴がある。
「論理的思考ができない」ということは、
ゲーム性のあるものは、難しい。
となると、もっと単純なもの。
それが「走ること」かなと。
走ったら、褒められる。
走ったら、唐揚げを買ってもらえる。
走ったら、そのうち気持ちよくなる。
走ったら、みんなとも混じり合うことができる。
走ったら、楽しい。
そう思ってくれたら、
走ったら、健康になるよ。
走ったら、いい死に方できると思うよ。(いろんな病気を併発する可能性は低くなる)
が、私の想定。仮説です。
彼には、理解できないと思いますが、
だれも知らない「未知の世界」がそこにあるような気がします。
私自身も未知の世界を見に行くことに、私自身の生き方があると感じています。
彼も道連れ(笑)
走ること、走らせること。
それは未知の世界への第一歩。そんな可能性を感じています。
おやすみなさい。

独り言・・思い出の写真、ここから始まった今・・

23130875_1492815264129554_317608469162225037_n(独り言)・・思い出の写真 こから始まった今・・・

1999年11月。イギリスのHarrogate の学会会場(The Magestic Hotel)の前での写真。当時 36歳

日本QA研究会から、真ん中が、故柳田会長、左がGLP部会派遣(当時の国際委員会委員長)のI田さん。

私は、GCP部会からの派遣で、会社に、この海外出張の申請をしたら、「おー 日本代表か!!」ということで、あっさり承認され、数年ぶりの海外出張となりました。

1995年ごろ?当時東京勤務で、納得のいかない期の途中6月初旬での人事異動で、東京の開発企画室から九州のQA部門に移動になりました。

まあ、上司の上司から、完全に「あなたはここにはいらない」といわれた感じの期の途中での移動で、個人的にはらわたも煮えくり返り、会社にいることが、とてもいやになった時期でもありました。

また、時期を同じくして、祐太郎が自閉症の可能性と診断された時期でもあり、めぐりあわせのような私にとっての事件でした。

その後、鳥栖に転勤し、QAU室という新設の部署。
私は当時33-4歳くらい、でしたがこの部署の平均年齢は50歳越え。

私のことをよく知っている方々は、みな、「牧崎には似合わない部署だね」と口々に。。。されていたのを覚えています。

その後、日本QA研究会のGCP部会で「今後のQAを考える特別部会」のようなものができて、上司からあなた参加してみない?と、声をかけられ、参加しました。それが1998年?

そして、1999年。その検討部会の中からGCP部会派遣を出すことになり、私が選出され、久しぶりの海外出張となりました。

これが、会社の中で「日本代表」とうわさされたからか、どうかは分かりませんが、この出張のあと、会社の仕事でも、GLP監査、GCP監査の仕事で、海外出張が急増。

日本QA研究会では、i田委員長から、国際委員会に誘われ、
委員長しない、、といういきなりの提案はお断りし、
委員として国際委委員に所属し、会のお手伝いがはじまりました。

この後、会社内でも、QA部門の認識が高まり、私発信で発足したプロジェクト(委員会)活動の他、研究、開発、工場、安全性等、それぞれの分野に深く入っていくことになりました。

QA研究会での活動では、2004-5年あたりから、国際委員会の委員長を務め、海外のQA団代との窓口となる仕事が始まりました。

当時からのメインのコンタクト先、英国(BARQA),米国(SQA)のそれぞれの団体とのお付き合いもあり

両団体の主催するAnnual Conference にもたびたび出張するようになりました。

出張するたび、団体活動を通じての人脈が広がり、社内でも私のというかQA的な仕事の内容評価されるようになっていきました。

そして、この写真の1999年のBARQAのAnnual Conferenceの時、故柳田会長が、BARQAとのMOUの締結を提案され、
併せて、米国SQAとも同様のMOUの締結を提案する旨を述べられ、更に、3極での国際学会の開催を提案されました。

その場に立ち会ったことも運命的にも感じますが、
その後、QA団体同士の交流も活発になり。この時提案された国際学会(Global QA Conference、GQACという名前になりました)
そして、来年2020年の2月、仙台で、第6回GQACが開催されます。日本(JSQA)として、2回目の開催。
日本では、日本での開催の発起役となり、その後、これらの学会と寄り添いながら、学会参加がモチベーションとなり、自分自身の成長を感じながらここまできました。
この間、20年。

自分には似合わない仕事、、と思っていたものが、この時(写真の時)私自身の大きな冠になる種が発生した瞬間でした。

人生何が起こるか分かりませんが、自分の人生の中での祐太郎と、は別に、もう一つ、私の人生を変えてくれた一枚の写真。
この写真を見るたびに、そう思います。

さて、この後、どういう人生になるのでしょう。

思うところは、いろいろありますが、分かりませんね。
自然体で、欲しいものを欲しい、なりたいものになりたい、やりたいことをしたい。
瞑想の中で、浮かんできた方向に進む。

忙しぎた今年、ずっと受け身の頭でしたが、すこーし、前向きに、積極的にものを考えられるようになってきました。

”Proactive” 写真の学会の時に学んだ言葉です。
今でも活きてます。私の訳 ”前へ”

おやすみなさい。