青島太平洋マラソン コンプリート

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青島太平洋マラソン コンプリート。
サブフォー 死守
ネット 3時間53分 (昨年と同じ)

目標タイム 3時間45分 だったけど、
想定外だったのですが、案の定 (^-^)
32km 過ぎから減速してしまいました。

とりあえず 56才でサブフォー。
次は57歳でサブフォー。
58歳で自己ベスト更新 (目指します)

まだまだ つづく。
お疲れさまでした (^-^)v

(独り言)・・未知の世界へ・・

(独り言)・・未知の世界へ・・
知的障害(自閉症)の息子にも運動をさせる。
走ることにチャレンジさせている。
本人にとっては、何のことかわからないのだけれど、彼がどこまで成長してくれるかを見てみたい。
そう思って、運動をさせています。
重度の自閉症?重度の自閉症スペクトラムで、
うちの息子の特徴は、
「ひととのコミュニケーション能力が極端に低い」
「論理的思考能力がほとんどない」
”ひととのコミュニケーション能力が低い”ということは、
まず「言葉がしゃべれない」
「人のこころを察することができない」
「自分の感情をコントロールできない」
”論理的思考能力がない”ということは、
「これは、楽しい」「楽しくない」
「これは美味しい」「おいしくない」
「お金?」「意味がわからない」
というような、一問一答的には、感じることができるが、
「これって、こうだから、こうだよね」という、論法がわからない。
もう一つ例を出すと、
先日、くじゅうの下山途中、完全に日が暮れてしまったので、彼に懐中電灯を持たせました。
彼の足もとを照らして、自分で歩いてきてほしいと思いましたが、彼は、懐中電灯の明かりが出ることが面白いと思っているようだが、懐中電灯を使って、足もとを照らして歩く。ということをしない。
なぜか?
彼は、懐中電灯が、暗い中足もとを照らす道具であることを理解できていない。
懐中電灯を持たせて、使い方のわからない彼に、、、うーん。こうきたか。で、
最終的に、私が使っていたヘッドライトを、かれの頭に装着し、私が懐中電灯をもって、真っ暗な山の中、彼の足もとを照らしながら下山したしだい。
(でも、くじゅうの空の星はとっても綺麗でした)
こういう彼だから、彼のような人多たちの多くは、おとなしく生活できる環境を与えられる。
そこから、彼らの成長はない。じっと暮らす。
自閉症の子供、人は、こんなもん。
こういうことはできない、
こんなところでは生活できない。
自閉症の専門家らからも、論文を見ると、そういうレッテルが張られている。
でも、うちの子は、というか、こういう子、人も必ず成長する。
その機会さえ与えてあげられれば、必ず。
成長の方向性は、その子ども、人の性格、能力によっても、それぞれである。
うちの子には、何ができる?
全く暗闇のなかで、他の自閉症の子供のじれいなんか、全く通用しない。
この子は、この子、あの人はあの人。 人それぞれの特徴がある。
「論理的思考ができない」ということは、
ゲーム性のあるものは、難しい。
となると、もっと単純なもの。
それが「走ること」かなと。
走ったら、褒められる。
走ったら、唐揚げを買ってもらえる。
走ったら、そのうち気持ちよくなる。
走ったら、みんなとも混じり合うことができる。
走ったら、楽しい。
そう思ってくれたら、
走ったら、健康になるよ。
走ったら、いい死に方できると思うよ。(いろんな病気を併発する可能性は低くなる)
が、私の想定。仮説です。
彼には、理解できないと思いますが、
だれも知らない「未知の世界」がそこにあるような気がします。
私自身も未知の世界を見に行くことに、私自身の生き方があると感じています。
彼も道連れ(笑)
走ること、走らせること。
それは未知の世界への第一歩。そんな可能性を感じています。
おやすみなさい。

独り言・・思い出の写真、ここから始まった今・・

23130875_1492815264129554_317608469162225037_n(独り言)・・思い出の写真 こから始まった今・・・

1999年11月。イギリスのHarrogate の学会会場(The Magestic Hotel)の前での写真。当時 36歳

日本QA研究会から、真ん中が、故柳田会長、左がGLP部会派遣(当時の国際委員会委員長)のI田さん。

私は、GCP部会からの派遣で、会社に、この海外出張の申請をしたら、「おー 日本代表か!!」ということで、あっさり承認され、数年ぶりの海外出張となりました。

1995年ごろ?当時東京勤務で、納得のいかない期の途中6月初旬での人事異動で、東京の開発企画室から九州のQA部門に移動になりました。

まあ、上司の上司から、完全に「あなたはここにはいらない」といわれた感じの期の途中での移動で、個人的にはらわたも煮えくり返り、会社にいることが、とてもいやになった時期でもありました。

また、時期を同じくして、祐太郎が自閉症の可能性と診断された時期でもあり、めぐりあわせのような私にとっての事件でした。

その後、鳥栖に転勤し、QAU室という新設の部署。
私は当時33-4歳くらい、でしたがこの部署の平均年齢は50歳越え。

私のことをよく知っている方々は、みな、「牧崎には似合わない部署だね」と口々に。。。されていたのを覚えています。

その後、日本QA研究会のGCP部会で「今後のQAを考える特別部会」のようなものができて、上司からあなた参加してみない?と、声をかけられ、参加しました。それが1998年?

そして、1999年。その検討部会の中からGCP部会派遣を出すことになり、私が選出され、久しぶりの海外出張となりました。

これが、会社の中で「日本代表」とうわさされたからか、どうかは分かりませんが、この出張のあと、会社の仕事でも、GLP監査、GCP監査の仕事で、海外出張が急増。

日本QA研究会では、i田委員長から、国際委員会に誘われ、
委員長しない、、といういきなりの提案はお断りし、
委員として国際委委員に所属し、会のお手伝いがはじまりました。

この後、会社内でも、QA部門の認識が高まり、私発信で発足したプロジェクト(委員会)活動の他、研究、開発、工場、安全性等、それぞれの分野に深く入っていくことになりました。

QA研究会での活動では、2004-5年あたりから、国際委員会の委員長を務め、海外のQA団代との窓口となる仕事が始まりました。

当時からのメインのコンタクト先、英国(BARQA),米国(SQA)のそれぞれの団体とのお付き合いもあり

両団体の主催するAnnual Conference にもたびたび出張するようになりました。

出張するたび、団体活動を通じての人脈が広がり、社内でも私のというかQA的な仕事の内容評価されるようになっていきました。

そして、この写真の1999年のBARQAのAnnual Conferenceの時、故柳田会長が、BARQAとのMOUの締結を提案され、
併せて、米国SQAとも同様のMOUの締結を提案する旨を述べられ、更に、3極での国際学会の開催を提案されました。

その場に立ち会ったことも運命的にも感じますが、
その後、QA団体同士の交流も活発になり。この時提案された国際学会(Global QA Conference、GQACという名前になりました)
そして、来年2020年の2月、仙台で、第6回GQACが開催されます。日本(JSQA)として、2回目の開催。
日本では、日本での開催の発起役となり、その後、これらの学会と寄り添いながら、学会参加がモチベーションとなり、自分自身の成長を感じながらここまできました。
この間、20年。

自分には似合わない仕事、、と思っていたものが、この時(写真の時)私自身の大きな冠になる種が発生した瞬間でした。

人生何が起こるか分かりませんが、自分の人生の中での祐太郎と、は別に、もう一つ、私の人生を変えてくれた一枚の写真。
この写真を見るたびに、そう思います。

さて、この後、どういう人生になるのでしょう。

思うところは、いろいろありますが、分かりませんね。
自然体で、欲しいものを欲しい、なりたいものになりたい、やりたいことをしたい。
瞑想の中で、浮かんできた方向に進む。

忙しぎた今年、ずっと受け身の頭でしたが、すこーし、前向きに、積極的にものを考えられるようになってきました。

”Proactive” 写真の学会の時に学んだ言葉です。
今でも活きてます。私の訳 ”前へ”

おやすみなさい。

(独り言) ・・意識をつなぐこと・・

(独り言) ・・意識をつなぐこと・・

中学、高校、大学を通じて、超苦手だった英語を使って仕事をしていること。
短距離は比較的速い方だったけど、小学校からずっと苦手だったマラソンをやっていること。
理系の研究員だった私が、仕事の内容と全く重ならない中小企業診断士の資格を勉強しだして9年目で取得したこと。

他にもありますが、真逆というか、現在いる世界から遠い世界に憧れて? チャレンジして、それなりの能力を身に着けている。
そういう自分がいて、それぞれのエリアで、できないことができるようになり、自信になっていく。

そのプロセスの中で、ダメだ、無理だ、もう嫌だ、、などなど、ネガティブな思考が常に頭をよぎるが、
意識だけはつなぐ。やめない。積極的に攻めるわけではないけど、続ける意思だけは持ち続ける。

そうすると自分の気持ちも変わるときがあって、また行動を始める。チャレンジする。

最近は、自分自身の気持ち(心)の変化も、自分自身で予測して行動している。

マラソンへのチャレンジは、多くのことを教えてくれた。
初マラソンで、30㎞過ぎ、きつすぎて「もう2度と走らない」と心に決めて、ヘロヘロでゴール。
その1週間後、「また、走ってみようか」と思い始めていた自分。

ウルトラマラソンにチェンジし始め、
100㎞、140㎞、250㎞と長い距離を走り、自分自身の考えている限界が、実は限界ではないことに気づく。

なぜ、そうなるのか。
「意識を繋ぐこと」、「思うことを止めないこと」で、
無理だと思っていたことでも、遠い世界だ、、と感じていたことでも、いろんなことが実現する。

今は、ちょうどターニングポイント。
実現させたいことが、たくさんあり、それぞれ苦しい状況。なかなか前に進まない。

焦る、、気持ちも出てくるけど、現状は現状。そう簡単には変えられない。
意識をつなぎ、思うことを止めなければ、あと、、、年を取りすぎなければ(笑)

きっと、思いは実現する。

私流、、というとおこがましいが、生きる極意の一つだと思う。

(独り言)・・見ざる言わざる聞かざる・・

(独り言)・・見ざる言わざる聞かざる・・
「有言実行」という言葉がある。
自分のやりたいこと、進みたい方向がある場合、まず公言して、自分を追い込んで、たどり着く。
私自身、概ねこのタイプであるが、
本当に追い込まれたとき、集中したいとき、何とかしたいとき、
眼をつむって何も見ず、雑音をたちはらい、無言で集中する。
見ざる 言わざる 聞かざる
実は、有言実行と同じく、やりたいこと、進みたい方向に行くために自分をコントロールする極意であるようです。
徳川家康も、そう思っていたのではないですかね。
自分にも重ねて、ふとそう思いました。
おやすみなさい。

(独り言)・・大切なもの・・

(独り言)・・大切なもの・・

自分にとって大切なもの。
・生まれる前、流産しかけていたお腹の中の赤ちゃんを必死で救おうとした。
・生まれて、自閉症と診断され、会社に転勤しないことを告げた。
・そして、息子より長生きすることを誓った。
・何気なく、野球が下手になったからという理由でランニングを始めた。
・そして、長く生きていくために、体を鍛えているという認識になっていった。
・息子が小学校 4年生の時、家を建て、小学校から遠くなり、集団登校ができなくなった息子と一緒に歩いて通学した。3年間。
・大和特別支援学校に学校(中学校)が変わり、会社を辞め、独立して、子供の送迎もできるようにした。
・独立して、中小企業診断士として、障害者就労支援施設のコンサルティング活動に携わった。
・会社を設立し、その理念の一つに「障害者雇用1万人の会社を作る」を掲げた。
・49歳の時、100㎞マラソンに挑戦し、自分にとっての限界に関心をもった。
・53歳の時、萩往還マラニック250㎞を完踏し、自分にとっての限界はまだまだ先があることを感じる。
・いつのころからか、障害者雇用1万人の会社作る目標の最初のステップとして、カレー屋さんを作ることを思い立つ。
・障害者雇用1万人の会社を作り、101歳で、ノーベル平和賞を受賞することを公言する。
・独立して10年がたち、そろそろ、そろそろ とずっと思い続けている。
・長く生きるために、走る。体を鍛える。
・長く生きるために、、、

他にもありますが、
これらの中心にあるのは「息子への思い」であり、
大切なものは、息子が生まれてきたからできた「私の目標」。
「私の目標」

それは、すなわち「私の生き方」なのです。

おやすみなさい。

 

(独り言)・「みんなちがってみんないい そして自分も」 

(独り言)・「みんなちがってみんないい そして自分も」

昨日のサロマ湖ウルトラマラソン(100㎞)は、予想は曇りの天候予測で、寒さ、雨の対策をして、大会に臨みました。

しかし、スタート直後は曇りの天気で、良いコンディションでしたが、午前5時にスタートし、9時をすぎると、晴れたり、曇ったり、

10時を過ぎるころには、あらま、カンカン照り。快晴の天気になりました。

おかげで、日焼けで真っ黒になってしまいました。
今日は日焼けが、、、お風呂で痛かった。

雨を含め、寒さ対策はしていたのに、暑かった昨日の大会でしたが、走りながらでしたが、気づきがありました。

「みんなちがってみんないい」金子みすずの「 私と小鳥と鈴と 」の一節ですが、

障害者支援を通じて、障害があっても、なくても、それぞれの人を認め合う、素敵な言葉だな、、というのが、最初の印象のことばでした。

それから、いろんな友人の悩みを聞きながら、これって、障害と、それ以外にも当てはまるいい言葉だな、、と。

どんどん、意味が分かり、素敵度を増してきた言葉でしたが、
今回のマラソンでも、頭に浮かんできました。

私には、現在の私にとって、かなりハードルの高い、
「100㎞を10時間以内に走る(サブ10)」という目標があり、
昨日も、前半の20㎞、サブ10をイメージしながら、飛ばしました・5分40秒/分くらいで。これで、50㎞までいけないかな。。のチャレンジでした。

しかし、20㎞に到達するころには、これはきつい。で、ペースダウン。ペースが落ちだすと、どんどん落ちて、50㎞を過ぎるときには、7分/㎞がやっと。でした。

この時、思ったのが「やっぱり自分には無理だ」ですが、
こう思ってしまうと「心が折れてしまう」方向に、気持ちが向い、最終的に「リタイヤ」になってしまうのですが、

昨日はここで「みんなちがってみんないい」の言葉が浮かんできました。

自分の身の丈にあった走りで、どこが悪い。
今の自分はこんなもん
自分なりに頑張って、ゴールを目指せばいい。
心が折れるのは、人と自分を比べるから。
自分は人と競争しない。
最後まであきらめずに走るだけ。
みんなちがってみんないい。
当然自分もみんなと違う。
人と競争しない。
自分のペースで行こう。

あとは自分との勝負。

こう思って、昨日は心が折れそうになった時も実はありましたが、
最後まで、走り切ることができました。

「みんなち違って、みんないい」
実は自分に対するメッセージだった。

今まで、わかったような気分で、この言葉を使っていましたが、
心が折れる原因は「人と競争してしまうから」

人と競争せず、自分と向き合う。

「みんな違って、みんないい」
自分自身で自問自答しながら、苦しみながら走った後半 ”67-8㎞→100㎞”でした。

速い人もいるけれど、どんどん追い抜かれても行くけれど、
人とは競争しません。

マイペースで、自分と向き合います。

そして正々堂々と、自分自身のなかなか越えられない壁にぶち当たっていきたい。

歳をとり、当たり前のように衰えも感じておりますが、まだまだあきらめません。
サブ10とスパルタスロン。

結果は、予想タイムよりかなり遅かった昨日のレースでしたが、
身の丈を知り、自分自身を知り、
「みんな違ってみんないい、そして自分も」

の昨日のレースでした。
サロマ湖ウルトラマラソンに感謝!!

おやすみなさい。

 

選択と集中

つぶやき 的に書きますが、

独立以来、できることは何でもやって、仕事として来ておりました。

このやり方で、ビジネスマンとして、事業者として、そして人間として、自分自身の能力的な財産は、かなり構築・蓄積することができました。

ここから飛躍していくためには、まだ手を付けてない分野も含めて、選択と集中を図っていく必要があると感じています。

これを完全なる決意としなければなりません。

どうも、流されてしまうところがありますが、襟を正して、行動しないといけない。

後悔しないうちに。。です。

 

独り言・・・まだまだ行きます。

(独り言)・・・まだまだ行きます・・・

今月2本目のウルトラマラソンの案内がきました。

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今回で3回目のサロマになりますが、
前回2回は、天候に攻められた大会でした。
1回目は酷暑(サロマなのに28℃)、
2回目の一昨年は、ずっと雨で、体が冷え切ってしまいました。

まるっきり平坦なコースではありますが、この天候と、制限時間の短さで、完走率はけっこう低い。といっても、5割はありますが。(28度の時は、5割切ってたかな)

昨年は、萩往還で176㎞で途中リタイヤ。
そのあと、仕事の予定やら、町の行事の予定と重なり、100㎞を超える大会に出場できず、不完全燃焼の年でした。

今年は、年初の故障による練習不足はありましたが、
1昨年の5月をピークとして、落ちてきた体力を、もう一度戻そうと、今年はウルトラ5本、あわよくば来年の春までに、もう一本。などなど、考えていて、1年かけて、体力を戻す計画で、
ウルトラマラソンを数本、予定に入れました。

先日のARTで、78.8㎞でリタイヤしてしまったので、
今回の飛騨高山のウルトラはどうしても走りたかったんですよね。

そして、この思いが神様に通じて、完走することができたように感じています。ほんと、大山祇神社と母智丘神社の神様のおかげでした。(きっと仲良しですよ、この2か所の神社の神様(笑))

そして、そして、出鼻をくじかれることなく、次を目指すことができることになりました。

前半50㎞。酷使した右の足首周りは、まだ腫れているというか、完全にむくれておりますが、痛みはないので、しばらく休めば大丈夫。いっしょに、脹脛も。。。治れ!!

今年は、息子との山登りとウルトラ。いっぱい楽しんで、
来年、再来年、もう一つ先を体感してみたい。

そう思って、おっちゃんは、頑張ります。

おやすみなさい。