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2011 年 11 月 のアーカイブ

私にとっての中小企業診断士

2011 年 11 月 23 日 コメントはありません

これで6つめの私のキーになる活動。

最近、かなり忙しい毎日を過ごすことになっているが、その根幹を作っているのがこれ。

一言で言って、
私に 「勇気」 を与えてくれた資格。 ということ。
このことについて、今日は書いてみたい。

1997年もしくは1998年ごろ、正確には覚えていないが、東京勤務から鳥栖勤務に、時期外れの転勤があった。
「これって左遷?」 と思うような感じで、自分自身に「腹が立って」、「情けない」、「どうしてわかってくれない」、、、、などなど。
体の中をいろんな悔しい思いが駆け巡ったのを覚えている。

会社(上司)に指示され、まったく対応・反対することのできない自分自身の”無力さ”を感じた出来事でした。

新しく配属された部署は”QAU室”。
室長をはじめ外のメンバーは全員50代後半。
当時私は32か33ぐらい。

役職はなかったけど、研究開発本部の中心で開発企画室の先頭に立って(その気分)でに働いていた自分にとっては、かなりショックな人事異動だった。

先ほど、話したように、この人事異動で、自分自身の無力さを知った。

一人でも生きていける”力”これが、転勤後の私のキーワード。
そこから、以前からちょっとだけ本でみたことのある”中小企業診断士”というものに興味がわいた。

医師、弁護士、**士、有名な資格はすべて、大学もセットになっていることが多い。
また、資格を取る前に、前提となる経験を要求するものも多い。
そんな中にあって、誰でも受験でいる。結構難しい関門であった、中小企業診断士という資格には、少し魅力を感じた。

ただし、もともと、医薬品の研究畑で10年余りを過ぎしてきていたので、
「経営」と言われたところで、何のことやら。。。
本当に無知からのスタートだった。

それから、診断士の勉強を通して、会社のこと、人とのコミュニケーションのことなど、今まで勉強したことのないさまざまなことに触れた。
勉強すればするほど、自分の無知さ、無力さを痛感するようになり、自分自身にたりないところも多く見えるようになってきた。

それでも、話せば長い話。
通信教育等で勉強を始めたのが、33ぐらい、そして診断士に合格したのが5年前だから43歳のとき。
ほぼ10年。会社にいるときは、それでも少し恥ずかしかったので、「7-8年かかりました」といっていたけど、実際は、それよりも長い時間かかっていました。

工学部の学生の時は、あまりよい生徒ではなかったので、本当に”ばか”のまま卒業させてもらったような感じで、
4年で卒業したのが学級40人中24人。私の成績は24番目で、卒業も3月31日と極めてギリギリに卒業するような成績。

会社に入っても、化学、生物、薬学については多少勉強するものの、
「経営」に関しては、まったくの無知。

特に、財務・会計、経済学は、わかるようになるまでに本当に時間がかかったのを覚えている。

当時からも考えられないが、今ではこの「財務会計」のところも、私の一つの武器になっているから面白い。

同じ通信教育を、何回も何回も。
おそらく日本マンパワーの通信教育を3回。3回目は教科書を買わなかったけど、それでもすべて2冊教科書があったのを覚えている。
そのほか、どこか忘れたけど、もう一社、通信教育を受けていた。

なにせ教科書が8冊。(企業経営、財務会計、経済学、経営法務、運営管理、経営情報システム、新規事業開発、中小企業施策)
1冊を1週間で勉強しても、一回りするのに8週間。2か月かかる。
そのころは最初に勉強したものは忘れてしまう・・・そんなボリュームの通信教育だった。

それでも、やめずに続けていると、徐々にではあるがいろんなものがわかるようになった。
鳥栖に帰ってきたころは、ひそかに、「40歳ぐらいになったら独立しよう」などと考えていたが、思うようにはならないもの。

40歳になるころ、やっと自分自身、(合格する)可能性を感じ、通学コースへ行くようになった。
それでも、結局3年かかってようやく合格。
1年目日本マンパワー、
2年目企業経営通信学院、
3年目:日本マンパワー2次通学&AASの通信教育

で、ここまでで本当に長い道のりを感じたのを覚えている。

また、最後の2次試験の時は、親父の49日。
亡くなった時はアメリカ出張で、通夜には間に合わなかったし、
49日のときも試験。 
本当に「親不孝な息子だ」 とつくづく思ったのを覚えている。

それでも、合格後、じわじわと代わってきた。
中小企業診断協会の先輩方とのお付き合いが開始され、
相談事業、診断事業、セミナー事業等いろいろな機会をいただき、サラリーマンではあったけど、こっそり副業にならない範囲で、事業に参加する機会をもらった。

周りの先生との話などを通し、自分自身で事業計画や人生のプランをイメージできるようになってきた。
自分の人生の先。一歩先。
その一歩先に行くためにしなければならないこと、、、などが見えてくるようになり、

自分にも”やれる”という気持ちがわいてきた。
当時は”やれる”というより、”やってみたい”のほうが気持ちとしては強かったかもしれないが、

診断士になって2年目、イギリスでの2ndGQACが終わったのを機に、会社を辞め、独立する話を上司にした。(平成18年11月)

”人生のカードは3枚ある”というが、
その最初のカードをこの時切ったのである。 

本当に、怖くて怖くてたまらない高~いところからジャンプするような感じ。
ふわふわしながらも、思い切って飛び降りた感じだった。

ある程度自信はあったものの、心の中での”不安”は比率では示せないけど、相当あったのを覚えている。
でも、人と話すときは、”まったく問題ない”、”必ず成功する”を貫いた。

それは、診断士の勉強を通して得た能力も支えになっていたのは間違いない。
自分の将来イメージをしっかり持って、人にそれを話す。

そしてどうやったら、そこにたどり着けるか、自分なりに設計図、海図を描く。
そこで、自分自身のやりたいこと、人生の中での自分の仕事を明確にしていく。

こんなことが、診断士という資格そのものおよびそのスキルとして得た考え方からできるようになってきていた。

診断士の資格をとればこういう風に考えられるのか、
といっても、そんなことはなく、その間、勉強してきたさまざまなこと、
自分の身の回りで起こっていることから、

自分の生きていく道をイメージしていったまでのことであるが、
診断士の資格を取って得た人脈、考え方、があったことが大きく影響したことは間違いない。

第1回目のジャンプの背中を押してくれた資格。
”勇気”をくれた資格。
それが、私にとっての中小企業診断士。

これから、あと2回ジャンプをする。
そろそろ2回目のジャンプをイメージしないといけないけど、さー どこでするか、いつするか、どのようにジャンプするか。
そのための準備をすること、風・タイミングについてもじっくり考えたい。

以上

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私にとっての日本QA研究会(JSQA)

2011 年 11 月 18 日 コメントはありません

昨日、閑話休題ということで、3rdGQACのことについて、書いたところですが、その続きということで、私にとってのシリーズの5題目ということで、私にとっての「日本QA研究会」という題で書いてみたいと思います。

一言でいうと、私に国際人としての「成長」の機会を与えてくれた存在。

私が、1997 or 1998年頃 会社で左遷されたように九州に出戻り転勤でQAU室という部署に配属になり、
そこで、辻室長が、JSQAへの入会の準備をしていたのを覚えています。

その後、JSQAへの活動にGLP、GCPの両部会で参加することになりました。

そして、1999年、当時の中江GCP部会長が発足させた「GCP特別プロジェクト」で、GCP監査担当者の地位向上のための教育や資格要件等のあり方について検討する部会に参加しました。

そして、この特プロから、BARQA(英国QA研究会)の年会に参加する機会をもらい、
開発企画にいた時以来の海外出張の機会をもらいました。

(笑い話)・・・・当時の社内決裁で、「日本QA研究会の代表として・・・・」という文言で、海外出張の決裁書をだしてましたが、
         社長室や役員回覧の中では「日本代表」という言葉に置き換わっていたようでした。。。。???
         ということで、久しぶりの出張もあっさり承認。

この時のBARQA年会への出張が、今回の3rdGQACの始まり。
この時、私は、当時の柳田会長、今田国際委員会委員長と一緒の出張で、私からすると身分的にも”おこがましい”気がしている中でのイギリス出張でした。

今田さんとは、成田から一緒で、事前に送っていた私の写真で、今田さんから見つけてもらい、同行してロンドン経由で一路イギリスのハロゲートという街へ行きました。

そこで、Annual Conferenceに参加しました。

世界のQA研としては、もっとも古い組織で、300名ほどが参加する学会で、QA担当者として、かなり大きなインパクトをもらったのを記憶してます。

期間中、柳田会長からの提案で、BARQAの役員会とのミーティングがセットされ、私からは今田さんからアレンジれ、JSQAの概要、活動内容を説明しました。 

そこで、柳田会長から国際会議の開催の提案がされ、BARQA、SQA(米国QA研究会)とのMOUの締結等も提案されました。
(この機会にご一緒できたことに感謝!)

当時の印象については、かなり長めの報告書を書き、JSQAの会報に投稿したのを覚えています。
GCPの部会総会でも報告。(名古屋の大雨・洪水の時)

その後、日本に帰ってしばらくして、今田さんから電話があり「国際委員会の委員長しませんか」とのこと。
会社に相談しても委員長は許してもらえませんでしたが、国際委員会の委員には参画することになりました。

それから、10年余り。2005年の夏ごろと思いますが、前委員長の突然の退会により、私が委員長をすることになり、
その後の2nd 3rdのGQACの準備をする機会に巡り合いました。

国際委員会の期間中、比較的頻繁に、SQAやBARQAの年会に参加する機会をもらい、
ここで、いろんな方との出会いがありました。

この出会いや国際学会への参加で、私自身の見識もだいぶ変わり、海外の知り合いも増え、
専門家としては、まだまだ、力の足りないところはあるのだけれど、国際的な知識、見識はある程度持てるようになりました。

少なくとも、JSQAの中では、いろいろなことをコメントできるようになりました。

自分の会社にとって、直接貢献できていないようなJSQAの活動は、難しいところも多かったのですが、
これらの活動を通して、国内でもいろんな方と出会う機会が増え、

これらの出会いや役柄で私自身「成長」させてもらったように思っています。感謝。

昨日は、今回の3rdGQACに参加し、貢献していただいた方たちへの感謝の気持が強く、そのことだけを書きましたが、
私自身についてみれば、自分に足りないところへの「気づき」もありました。

この分野を通して、もう少し自分自身成長する方向性を見つけることができました。

3rdGQACの場で、イギリスのAndrew Waddell氏が言っていた、
これからのQAに必要なこととして
 Balance、
 Leadership
 Passion
をあげられました。
また、QA活動を異分野へ広げていくことが必要 などのコメントもいただきました。

私自身、
他分野にまたがって仕事をしているものとして、
多少海外の事情にも詳しいものとして、

このコメントは、腹落ちできるものでした。

これからは、私自身も、これらの私から見えているQA活動というものを、見直し、文章としてアピールしてきたい。
そうすることで、自分自身のこれからの活動も見えるものになってくると思っているところです。

今日は、またほかの仕事で忙しいところだけど、
時間はかかるかもしれないけど、この思いは実現していきたいと思っています。
 
以上。

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閑話休題 3rdGQAC(Global Quality Assurance Confrence)

2011 年 11 月 17 日 コメントはありません

11月13日~16日で開催された 3rdGQACに参加してきました。

発端は1999年の英国QA研究会での会合からスタートしておりますが、
日本QA研究会のプロジェクトとしては、4年ほど前、3rdGQACステアリングコミッティとして、スタートしました。

あれから、私も会社を退職し、このグループの前線からははずれて、できる範囲で支援をしてきたところですが、
事務局ほかの皆さんの頑張りで、参加者総数900名、ほぼ計画した人数を達成することができました。

Quality Assuranceという仕事ですが、この会議を持って、また一歩進んだような気がします。
私も、仕事は中小企業診断士とQA専門家と両方をやっていますが、

QA専門家の世界への広がり方。。。、異分野への広がり方、認知度の深まりなどなど、
私にとっても、魅力度が増した仕事となったような気がします。

今回の3rdGQAC、最後は感動して涙腺弱くなってしまいましたが、
それとは別に、やっぱりこの分野でももう少し、仕事しなきゃ。。。と思いながら、帰ってきました。

前に、3rdGQACは、私にとっての一つの”転機”と書きましたが、
「できること」 がある程度出そろった今。

深堀していく分野と進むべき方向性を、そろそろ絞りたいと思っています。

いずれにしても、3rdGQAC の成功に感謝。
3rdGQAC 事務局のメンバー、ステアリングコミッティのメンバー、英国QA研究会、米国QA研究会、中国QA研究会、台湾QA研究会、韓国QA研究会、インドQA研究会、フランスQA研究会、ドイツQA研究会・・・・・ みなさん、ご協力ありがとうございました。 
Thank you very much I Appreciate them all.

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私にとっての手をつなぐ育成会 

2011 年 11 月 12 日 コメントはありません

先週は仕事が結構過密で、朝から晩まづっと、出ごと。
締め切りを迫られている仕事も多かったので、かなり疲れる1週間だった。
このあと、残っている仕事量を考えると、魔の11月になるかも・・・・

「でも何とかなるんです。」・・・とプラス思考を心がけるようにしてます。

さて、今日で4回目、私にとっての・・・・・・
私にとっての「手をつなぐ育成会」

この活動は、私のほかのほとんどの行動の根拠になっている。
少し”遠い”と感じられる活動はあっても、結局はこのため・・・ということ。

1998年ごろ、6月の急な転勤で、東京から九州へ引っ越し。
どうやら、その時の2つ上の上司が、私の仕事に対し、なにか勘違いをして、私の行動が気に入らなかったらしいい。
左遷? こんな感じの異動だった。。。。ことを思い出す。

ここから、仕事の面では、中小企業診断士への道が始まるのであるが、

今日は手をつなぐ育成会。

異動になるすこし前、うちの祐太郎の1歳半検診で、
病院の先生に見せるよう勧められた。

その時は、何のことかよくわからなかったが、九州に帰ってきての検診で、
同じことを言われ、久留米医大に行った。

大滝先生という専門の先生に見てもらうことになった。
(当時、となりまちの小郡市にある”こぐま園”でも所長?専門の先生として勤務されていた方)

その時、「お宅のお子さんは自閉症です」という診断で、
自閉症と診断するにいたった、検査内容、自閉症という病気?について、説明があった。

家に帰り、”自閉症”を猛烈な勢いで、調べた。

”一生治ることはない”自閉症の特徴が書いてあるウェブサイトを見つけ、一生懸命勉強した。

うちの奥さんは、この診断で、何日かかなり落ち込んでいた。泣いてもいた。
私は・・・というと、よく覚えていないが、あまりにも、由美子が落ち込んでいるので、私が落ち込むわけにはいかなかったのかもしれないが、どうしたいいんだろう・・・ということだけを考えていた。

私自身の特徴かもしれないが、ほとんど悲観的になることはないタイプなので、
「自閉症なんだ」・・以外の感傷はほとんどなかったように思う。それよりも、うちの奥さんを同化しなきゃ・・・という感じだったかもしれない。

そこから、うちの奥様の活動が始まり、
ダウン症の保護者の方たちがあつまる「コスモス会」、「自閉症協会」そして「手をつなぐ育成会」の活動などに参加するようになった。

それらの会で開かれる「勉強会」「レクレーション」などに結構積極的に、夫婦で参加していた。
その中の手をつなぐ育成会のレクレーションでボーリングがあった時、(2003年ごろ?)

鳥栖市手をつなぐ育成会の役員改選で、いきなり副会長をお願いされた。

これも私の特徴であるが、頼まれたことを ”ほとんど断らない”。 
(性格上”断れない”のかもしれない。)

結局、由美子の反対もほとんどなく、副会長を引き受けることになった。
前置きが長くなったが、そこからが、「私」と「手をつなぐ育成会」の実質的な”繋がり”の始まりである。

ここから、手をつなぐ育英会のこと、自閉症という病気のこと、地域での障害者福祉に関する制度(行政サービス)、法律の変遷、問題点・・・ などなど、いろいろなことの勉強が本格的に始まった。

それから10年余りたっているので、今は、いろんなことが理解できるようになっているが、当時は、まったくの無知だったので、
活動には参加するけど、その”意味”というとほとんどわからないまま活動を続けていた。

活動を始めて2-3年たったころ、”市会議員”になろうかと考えていたころがあった。
そうすれば、仕事として”福祉”の世界をじっくり考えられるし、活動もできる。と考えたから。

しかし、由美子の猛反対で、結局その話は表には出なかった。

そこから、時間が過ぎて、2008年ごろ。会社を辞める1年前に「鳥栖市手をつなぐ育成会」の会長になることになった。

私自身、「若すぎないか」と思いつつ、引き受けることになったのだが、
そこから、手をつなぐ育成会の仕事が一気に増えた。

鳥栖市の障害者福祉計画、障害福祉計画等の策定委員。
各種福祉団体の模様しものへの参加。
佐賀県手をつなぐ育成会の理事としての活動
三神地区(神崎市、みやき町、吉野ヶ里町、上峰町、基山町、鳥栖市)の会長同しの会合 などなど。

これらのための”出ごと”がかなり増えた。
そして、今年(2011年)の5月に、財団法人佐賀県手とつなぐ育成会の副会長という役につくことになった。
県の会長というと鳥栖市のそれとは比べ物にならないくらい”出ごと”が多い。

その役のうちのいくつかを分担して、参加する活動が続いている。
会報、発表、仕切り役などなど、かなりいろんなことを頼まれるようになる。

本当に、このおかげでかなり忙しい毎日になっている。

しかし、これらの活動を続けられているのは、
やはり、活動を通じて、障害者福祉の世界をかなり理解できるようになった。
それにつれて、障害者福祉に関する”思い”もかなり育ってきた。

なので、この活動、漠然とした言葉ではあるが”障害者福祉”に対する活動が、私自身のライフワーク化していった。
出ごとが多い分、本当に吸収する部分も多い。人との出会いも多い。

わたしのライフワークが、ゴールはまだまだ遠いけど、少しずつ近ずいていっていることも感じる。
この感覚が、おそらく”忙しいから辞める”という言葉を抑えている。

仕事をいっぱい抱えすぎても、”なんとかなる”と考えてしまう。
「こんな忙しい自分に仕事を頼んだほうが悪い」、
「自分はできることをできる範囲でやるだけ」、
「これで自分がギブアップしたら、そっちのほうがみんな困るだろう」、
「完全にできなくても、おそらくみんな許容してくれる」

などなど、頭の中を、めぐってくるが、これで結局、ギリギリだけど「なんとかしている。なんとかなっている」のが現状。

とはいえ、「ライフワーク」という言葉に終着することになるが、
中小企業診断士の仕事でも、障害者福祉施設の就労支援施設の経営支援等の仕事ができているし、

どこまでできるかわからないけど、この活動を通じて、・・・そしてのこの先に・・・

私のやりたいこと、進みたい道、があるように思っている。

私の夢というと、
1.障害者を1万人雇用する企業を作ること。
2.これにより世界で、障害者の一般企業での雇用が今よりもっと当たり前になっている。
 (ノーマライゼーション)
3.そして自己満足(利己的)であるが、ノーベル平和賞でもらって、一生を終える。

これが私の今後50年の計画である。 なので、
・長生きをしないといけない。
・知識、能力をもっとつけないといけない。
・お金を動かす力がいる。

現在、不足しているいろんな能力の獲得に向けて、私の活動・行動はある。

そのすべての根拠を作ったのが、この手をつなぐ育成会の活動であり、
「無理をしない」、「できる範囲」でという言葉を肝に銘じながら、
どこまでできるかわからないけど、しばらくはこの仕事を通じてできることも続けなくてはならない。

そう思っている活動である。

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私にとっての3rdGQAC(Global Quality Assurance Conference)

2011 年 11 月 7 日 コメントはありません

昨日は、午前中、中小企業診断協会の実務従事の打ち合わせ。
私は、Y商店の生産・製造のところを担当した助言をすることになっている。

その後、とす市民活動センターの仕事で、子育て支援をテーマとした”円卓会議”と称したセミナーに参加。
ここで、みなさんが一生懸命なのに、なかなか進まない現状、子育て支援の問題点が見えたようなきがした。
ようは、ゴールの設定、方向性の設定が、まだ十分できていない。なので、輪が広がりにくい・・。といった感じのように思えた。

そのあと、町区対抗野球に参加するつもりだったが、
電話で状況を確認したところ、雨のため延期で来週に再再再延期になったとのこと。(これで何回目の雨天延期になるか?)
今度の13日は、今日のお題である3rdGQACに参加してくるので、参加できない。残念。
4回目の優勝と、打ち上げに参加できないものつらい気がする。・・・・・もう一回延期にならないかななどと考える。

それから、祐太郎の世話。帰ったら、まだパジャマのままだったので、外に連れ出し、いつもの通りドライブ。

そして、残った仕事を。  という一日でした。 仕事がなかなか終わらない。 ふーっ。

◆さて、今日の本題の3rdGQACであるが、
私がこの世界(QAの世界)に入って、今でも仕事をしているきっかけを作ってくれたイベントである。

1997年ごろ、私は、九州に転勤でこの職に就いている。
その後、日本QA研究会(JSQA)に入会し、2年目(1999年)にチャレンジのつもりで、当時の特別プロジェクトに参加した。

当時業歴としては少なかったものの、当時のGCP部会長(中江さん)の許可をもらって、プロジェクトに参加し、会議に参加するようになった。

その年の秋、BARQA(イギリスQA研究会)の年会に、JSQAからに派遣があり、特プロからの推薦で、BARQAの年会に、柳田会長、今田国際委員会委員長と3人で参加した。

その時、柳田会長が、BARQA役員との会議の中で、会相互の関係強化を目的としたMOU(Memoranndum of Understanding)の締結と同時に、将来的には米国QA研究会も巻き込んで国際学会を開きたい旨を表明された。

この後、BARQAで即、賛同を得たのち、翌2月ごろ?の米国SQAでも、会長から同様の提案がなされ、とんとん拍子に3極QA研のMOU締結と、国際学会開催へロードマップが議論されるようになった。

これらの話を契機に私も今田さんからの誘いで、JSQAの国際委員会に入ることになり、
2005年夏、委員長に就任し、2期と半年、委員長をつとめた。

2005年春の第1回GQAC(米国フロリダ),2008年秋の第2回GQAC(エジンバラ)が開催され、
私自身もこの世界で自信をつけるきっかけとなっている。

そして、3rdGQAC。
実施に当たっては、4年前は、このプロジェクトの中心にいた。
会場予約および組織委員会的な委員会の立ち上げを行ったのち、実際の計画作成に入っていくが、
中小企業診断士の合格(2007年)を契機に、会社を辞めて独立することへの思いが強くなり、
会の中心にいることはできないと判断し、徐々にではあるが、中心をほかの方にお願いするようになった。

すぱっと切り替えればよかったのか・・・という気もするが、
私自身もGQACを人生のギアチェンジのための特別なイベントとして感じているので、なかなかやめられなかった。

当初からのかかわり、国際人として生きたいという願望の2つが、この活動を細々と続けさせていただいた理由であるが、
2ndGQACからは自身の転機(期)にも活用させていただいている。

会社を辞める。独立する。 田舎の大企業に勤めている人間にとっては一大イベント。人生の転機である。
実際、会社を辞める時は、会社、家族・兄弟、反対意見が多かった。というか反対ばっかり。

それでも、自分の決めた目標を達成するため、やりたい仕事をしていくためには、会社を辞めるしかないと考えみんなの反対を押し切って会社を辞めた。

その一大イベントを切り出すタイミングに使ったのが2ndGQAC。
当時はまだ、3rdGQAC実行委員(ステアリングコミッティ)のほぼ真ん中にいたが、
ひそかに「このイベントが終わったら、次のステップ」と考えており、

エジンバラから帰り、すぐに退職願を書き、家族へ相談したのち、
1-2週間、説得に時間を要したような気もするが、その後、当時の上司である斉田執行役員に話をしにいった。

私の場合、「あれが終わったら・・・・」と考えることが多く、
話を切り出すための一大イベントとして2ndGQACを考えていた。変ないみかもしれないが、大事なイベントであった。

今週末(13日)から京都で3rdGQACが始まるわけであるが、
これも私にとってのマイルストーン。

そろそろ次のステップに移るタイミングとなってきている。
どこまでステップを踏んでいくか、もう少し計画を練る必要がありそうだが、近いうちに報告するようにしたい。

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私にとってのとす市民活動ネットワーク

2011 年 11 月 6 日 コメントはありません

昨日は、午前中、佐賀コロニー祭に佐賀県手をつなぐ育成会の代表として参加。
そのあと、雨の中のバルーン会場で、いい麺亭とパーソナリティのランドリーさんに会いに行った。

競技は中止だったけど皆さんにあえてよかった。それにしても、お店を出していた方々は暇そうでした。
オール半額のお店もありました。

その中で、目的地である物産館の中でいい麺亭の”米粉麺うどん” にたどり着き、米粉麺うどんを食べました。

”細くて柔らかいのにかなり腰がある。かなり な・め・ら・か” 
(写真撮り忘れましたが、こちらのウエブサイトから http://www.shokokai.or.jp/41/4132610022/index.htm )
これも売れるようになってくれれば・・・・と思う。(こちらは6次産業化)

ところで、本題の”私にとってもとす市民活動ネットワーク(T-CSON)”であるが、
代表の鈴木さんに誘われて、理事として活動している。
ときどき、このT-CSONの企画する基金訓練の講師をやったり、河内ダムの植林地の下草刈り、その他の各種イベントに参画している。

このT-CSONは、地域の市民活動グループ これをCSO(Civil Society Organization)といいますが、このNPO法人を含むCSO活動グループを支援するいわゆる”中間支援”の団体である。

活動としては、鳥栖市からの委託で鳥栖市民活動センターの運営も行っている。

◆佐賀県内に300余りあるといわれる市民活動グループ、(たとえば、私が代表を務める”鳥栖市手をつなぐ育成会”もひとつのCSO)が、どのようにしたら、活発に活動できるようになるか?

◆行政サービスの中にどのような隙間サービスがあるのか、どのようにしたらそこを埋められるか。 などを考える活動である。

「市民協働」という言葉があるが、
市役所、県ができない市民の必要とするサービスを、民間の力でどのようにしたら埋められるようになるかを考える。
これがこのT-CSONの仕事である。

この考えに共感して、参加しているのであるが、トーストマスターズと同じく、時間の関係であまり積極的に参加できていない。

ではなぜ、この活動に参加しているかというと、
「この活動を通すと行政の姿がよく見えるようになるから」

手をつなぐ育成会の活動では、福祉の部分。
中小企業診断士の分野では、農林、商工の部分 などが見えてくるが、
市・県の行政サービスの隙間は見えない。

会社の中で、研究職をやっていて、経営が見えない、わからないのと同じで、
この活動を通して、市の行政・つまり市の経営を見ている感じである。

見ているというよりは、学習中という感じであるが、わたしにとっての大事な活動であると思っている。

問題は、どの程度忙しい中活動に参加できるかどうかであるが、できる範囲でがんばりたい。

今日は、午前中診断協会の会議のあと、午後、「地域円卓会議2011 in とす」に参加してきます。

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私にとってのトーストマスターズ 

2011 年 11 月 5 日 コメントはありません

 最近、忙しいと感じることが多くなった。今も本当に忙しい。
私の場合、忙しいといって、仕事、ボランティア、家事、子育て などなど、ほとんど境目がない。

私にとってどれが一番大事?・・・というものはない。
すべてが一番大事ということはないが、どのことも 「大事なこと ≒ 仕事」 のように考えている。

つまり、すべての活動がそれなりに意味があるということ、
理由、目的があるから、忙しくてもやっていられる感じである。

そこで、すこし自分自身の頭のなかの整理をも含め、私自身の活動をそれぞれ整理してみたい。
全部で、14ほど活動を列挙したらあったが、書きながらまだ増えてくるかもしれない。

すべての活動、その先には、「私の夢」があるので、その実現にむけて、完結していく。

1回目は「トーストマスターズ」

10年近く前になるかもしれないが、私は久留米トーストマスターズクラブの創設に携わった。
発起人は、当時の私たちの英語の先生であったフランク。

当時の先生からの誘いで、気軽に活動に参加した。
トーストマスターズクラブは、米国に本拠地をおくNPO法人で、「スピーチ」をテーマに、スピーチのスキルおよび会の運営、スピーチの技術向上等を通し、メンバーのリーダーシップスキルを養成するカリキュラムの内容になっている。

そのカリキュラムをマニュアル化し、世界各国にフランチャイズ化し、広まっている組織である。
ホームページを見れば今も世界、日本での活動人数もわかると思うが、私の記憶では、日本国内に7-8000人のメンバーがいる。

この活動の上記の目的以外のところの特徴は、
 ・スピーチの回数により、資格(Qualification)が付与されること、
 ・スピーチコンテスト、ユーモアスピーチコンテスト、エバ立エーターコンテスト、テーブルトピックスピーチコンテストなど、
会のなかで、各種のコンテストが用意されていること。このコンテストで、自分のスキルのレベルを客観的に確かめることができる。

私自身はこのクラブの古カブではあるが、7回のスピーチ経験しかなく、成績の悪い流年生のようなものである。
それでも、このクラブに魅力も感じているので、まだ活動を続けている。というのが本音である。

どこに・・・魅力を感じているかというと。
やはり、夢の実現のための自分自身の足りないスキルがそこにあるから。

英語力、スピーチ力 ・・・ 話す力 である。

十数年前の自分と今の自分を比較すると、存分、英語力、スピーチする能力も向上してきていると思う。
年齢とともに、それなりの”場数(ばかず)”が出きているのがその主な原因と思うが、まだまだ足りない。

特にスピーチ。
急に振られても、何とか対応することはできるようにはなったが、やはり言いたいことの半分も喋れていないことが多い。
原稿を用意していても、原稿を見ずにしゃべると、それでも3割程度は言いたいことを忘れている。
それが、英語となると、話せていないレベルは拡大する。

もっともっと、スキルを磨かなくては・・・と思いつつ、
クラブのミーティングに参加しなくては・・・とおもいつつ、
忙しさに負けて、思うように参加できない。

英語のスキルを身につけた時、診断士の資格を取った時と同じとは思うが、
「やめない気持ちが一番大事」と信じ、なんとかメンバーとして残らせてもらっている。
メンバーのみんなの温かさに感謝したい。

みんなに一度、公言したことがあるが、
そのうち、必ず、スピーチコンテストに出て勝ちます。
勝つまでスピーチコンテストにチャレンジします。

でも今年は無理ですね。・・・仕事を引き受けすぎてしまっています。
でも、やめない。必ず。

私に足りないスキルを磨き、自分を成長させ、自分の夢、目標に一歩でも近ずく、
そのための活動の一つがトーストマスターズ。

出席率の低いメンバーですみません。
そのうち、エンジンかかりますので、しばらくはご容赦を。

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熊本 金峰三山山岳マラソン

2011 年 11 月 4 日 コメントはありません

山岳マラソンとは何ぞや・・・そんな興味本位で参加した昨日のマラソン。
なんと6時間11分も完走するのにかかってしまった。

自分でも未知の領域だったけど、6時間もかかるとは思っていなかった。
朝9時にスタートし、午後3時まで、 参加178人中109位。

このレースで2つ感じたことがある。というか走りながら考えたことがある。
1つは、もともと、このレース。来年の6月にある阿蘇カルデラマラソン(100km)への練習としての位置づけだった。
このあと、少なくとも、来年3月まではあと2回。フルマラソンを走る。という計画。

今回のレースで、6時間も走ったこと、
このレースは過酷で、6時間のレースのうち、3つの山の登山道の上り下りの3回を含め、アップダウンは多いレースだった。
下りが得意の自分も、最後は、足が痛くてくだりも人に抜かれるような感じになってしまった。
原因は、足の筋力不足。 特に太ももについては、もっと鍛える必要がありそうだった。
仕事上、あまり走る時間は確保できないが、スクワットは太ももの裏、表用の両方やっていく必要があると感じた。
これで、もう少し、体を強くできれば、マラソンの距離が短く感じるかも・・・・

2つ目は、自分の限界?
走りながら、足が痛くなって切ってもとりあえず、動けないほど、痛くなったら止ろう、歩こうと思っていたが、
結局、最後まで、止るほどの痛みにはならなかった。

上り坂になると、太ももの裏 ハムストリングのところが痙攣を始めるので、終盤まで苦労したが、
終盤になり、軽くストレッチをやり、走り方も筋をもう少し延ばすような感じで走ったら、痙攣も治まってきた。

なので、最後の3kmぐらいは、意外と順調に走ることができた。
途中、自分の限界はどこ・・と思いながら走ったレースだったけど、

未知の領域ではあったけど、自分の限界はそこにはなかった。
その環境(自分自身のいる環境)が、当初自分の思っていた「限界」を変えてくれる・・・伸ばしてくれる。
それを実感したレースでした。

まー きつかった。

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