私にとっての中小企業診断士
これで6つめの私のキーになる活動。
最近、かなり忙しい毎日を過ごすことになっているが、その根幹を作っているのがこれ。
一言で言って、
私に 「勇気」 を与えてくれた資格。 ということ。
このことについて、今日は書いてみたい。
1997年もしくは1998年ごろ、正確には覚えていないが、東京勤務から鳥栖勤務に、時期外れの転勤があった。
「これって左遷?」 と思うような感じで、自分自身に「腹が立って」、「情けない」、「どうしてわかってくれない」、、、、などなど。
体の中をいろんな悔しい思いが駆け巡ったのを覚えている。
会社(上司)に指示され、まったく対応・反対することのできない自分自身の”無力さ”を感じた出来事でした。
新しく配属された部署は”QAU室”。
室長をはじめ外のメンバーは全員50代後半。
当時私は32か33ぐらい。
役職はなかったけど、研究開発本部の中心で開発企画室の先頭に立って(その気分)でに働いていた自分にとっては、かなりショックな人事異動だった。
先ほど、話したように、この人事異動で、自分自身の無力さを知った。
一人でも生きていける”力”これが、転勤後の私のキーワード。
そこから、以前からちょっとだけ本でみたことのある”中小企業診断士”というものに興味がわいた。
医師、弁護士、**士、有名な資格はすべて、大学もセットになっていることが多い。
また、資格を取る前に、前提となる経験を要求するものも多い。
そんな中にあって、誰でも受験でいる。結構難しい関門であった、中小企業診断士という資格には、少し魅力を感じた。
ただし、もともと、医薬品の研究畑で10年余りを過ぎしてきていたので、
「経営」と言われたところで、何のことやら。。。
本当に無知からのスタートだった。
それから、診断士の勉強を通して、会社のこと、人とのコミュニケーションのことなど、今まで勉強したことのないさまざまなことに触れた。
勉強すればするほど、自分の無知さ、無力さを痛感するようになり、自分自身にたりないところも多く見えるようになってきた。
それでも、話せば長い話。
通信教育等で勉強を始めたのが、33ぐらい、そして診断士に合格したのが5年前だから43歳のとき。
ほぼ10年。会社にいるときは、それでも少し恥ずかしかったので、「7-8年かかりました」といっていたけど、実際は、それよりも長い時間かかっていました。
工学部の学生の時は、あまりよい生徒ではなかったので、本当に”ばか”のまま卒業させてもらったような感じで、
4年で卒業したのが学級40人中24人。私の成績は24番目で、卒業も3月31日と極めてギリギリに卒業するような成績。
会社に入っても、化学、生物、薬学については多少勉強するものの、
「経営」に関しては、まったくの無知。
特に、財務・会計、経済学は、わかるようになるまでに本当に時間がかかったのを覚えている。
当時からも考えられないが、今ではこの「財務会計」のところも、私の一つの武器になっているから面白い。
同じ通信教育を、何回も何回も。
おそらく日本マンパワーの通信教育を3回。3回目は教科書を買わなかったけど、それでもすべて2冊教科書があったのを覚えている。
そのほか、どこか忘れたけど、もう一社、通信教育を受けていた。
なにせ教科書が8冊。(企業経営、財務会計、経済学、経営法務、運営管理、経営情報システム、新規事業開発、中小企業施策)
1冊を1週間で勉強しても、一回りするのに8週間。2か月かかる。
そのころは最初に勉強したものは忘れてしまう・・・そんなボリュームの通信教育だった。
それでも、やめずに続けていると、徐々にではあるがいろんなものがわかるようになった。
鳥栖に帰ってきたころは、ひそかに、「40歳ぐらいになったら独立しよう」などと考えていたが、思うようにはならないもの。
40歳になるころ、やっと自分自身、(合格する)可能性を感じ、通学コースへ行くようになった。
それでも、結局3年かかってようやく合格。
1年目日本マンパワー、
2年目企業経営通信学院、
3年目:日本マンパワー2次通学&AASの通信教育
で、ここまでで本当に長い道のりを感じたのを覚えている。
また、最後の2次試験の時は、親父の49日。
亡くなった時はアメリカ出張で、通夜には間に合わなかったし、
49日のときも試験。
本当に「親不孝な息子だ」 とつくづく思ったのを覚えている。
それでも、合格後、じわじわと代わってきた。
中小企業診断協会の先輩方とのお付き合いが開始され、
相談事業、診断事業、セミナー事業等いろいろな機会をいただき、サラリーマンではあったけど、こっそり副業にならない範囲で、事業に参加する機会をもらった。
周りの先生との話などを通し、自分自身で事業計画や人生のプランをイメージできるようになってきた。
自分の人生の先。一歩先。
その一歩先に行くためにしなければならないこと、、、などが見えてくるようになり、
自分にも”やれる”という気持ちがわいてきた。
当時は”やれる”というより、”やってみたい”のほうが気持ちとしては強かったかもしれないが、
診断士になって2年目、イギリスでの2ndGQACが終わったのを機に、会社を辞め、独立する話を上司にした。(平成18年11月)
”人生のカードは3枚ある”というが、
その最初のカードをこの時切ったのである。
本当に、怖くて怖くてたまらない高~いところからジャンプするような感じ。
ふわふわしながらも、思い切って飛び降りた感じだった。
ある程度自信はあったものの、心の中での”不安”は比率では示せないけど、相当あったのを覚えている。
でも、人と話すときは、”まったく問題ない”、”必ず成功する”を貫いた。
それは、診断士の勉強を通して得た能力も支えになっていたのは間違いない。
自分の将来イメージをしっかり持って、人にそれを話す。
そしてどうやったら、そこにたどり着けるか、自分なりに設計図、海図を描く。
そこで、自分自身のやりたいこと、人生の中での自分の仕事を明確にしていく。
こんなことが、診断士という資格そのものおよびそのスキルとして得た考え方からできるようになってきていた。
診断士の資格をとればこういう風に考えられるのか、
といっても、そんなことはなく、その間、勉強してきたさまざまなこと、
自分の身の回りで起こっていることから、
自分の生きていく道をイメージしていったまでのことであるが、
診断士の資格を取って得た人脈、考え方、があったことが大きく影響したことは間違いない。
第1回目のジャンプの背中を押してくれた資格。
”勇気”をくれた資格。
それが、私にとっての中小企業診断士。
これから、あと2回ジャンプをする。
そろそろ2回目のジャンプをイメージしないといけないけど、さー どこでするか、いつするか、どのようにジャンプするか。
そのための準備をすること、風・タイミングについてもじっくり考えたい。
以上