マラソンなんて・・・

私の人生の7不思議ではないですが、
高校や大学のころまでを考えると、今の自分は全く想像できません。

ポイントは、英語とマラソン。
英語については、別の機会に書くこととして、今日はマラソンを主に書いてみます。

英語とマラソン。いずれも、若いときには、超苦手な種目、科目でした。
マラソンの思い出は、小学校1-2年生のころの、学年で100人くらい中90番台??
中学校、高校と野球をやって走りこんでいても、学年では真ん中ぐらい。

英語については、高校から予備校、偏差値39点台が最高の点数。
辞書なんて、大学を出るまでもっていたことがありませんでした。
そんなことあるのか・・と思うかもしれませんが、ときどき必要になるときに姉から借りてたくらいで、高校時代、予備校時代に英語の辞書なしで過ごしました。

さて、マラソンに戻りますが、
マラソンも英語と同じく苦手種目。
短距離は100m12秒、50mを6.2秒くらいで走っていたので、そこそこ速い方でしたが、
マラソンとなると、とんとだめでした。

私の脈も平常で75-80/minと普通の人よりは多い脈拍で、心臓が小さい、肺活量は小さい、心肺能力が低い。
こんな感じでした。

脈拍については、今も同じで、この部分だけみると、とてもマラソン、しかも100kmを走る人間とは思えない体にも思えます。
耳当てして、脈拍を測りながら運動するインドアの機器がありますが、その機器を使用すると、あっという間に、脈拍は150を超えてしまいます。ピーピーすぐうるさくなるので、たまにそんな機器を使うことがあると、あえて耳当てせずに使うようにしてます。

そんな自分ですが、50歳を過ぎ、いまは、マラソンでアスリートを目指そうとしています。
ウルトラランナーとしてですが、本気で。

マラソンも昔速く走れた方は、続けるのは大変と思いますが、
私ぐらいに遅いと、じわじわ自己ベストも目指せるので、年取ってからでも楽しい競技です。

30歳代半ばくらいに、「野球下手になったな」という思いで、体を絞り直そうと思い、始めたランニングですが、
距離やスピード、少しずつ、ステップアップしていく自分が楽しくなってきました。

それにはまってしまい、10km、ハーフ、フルマラソンについて、毎年、何レースか参加するようになりました。
そして、49歳の時、はじめて100kmマラソンにチャレンジしました。

これがすごかった。
走りそのものは「死闘」という言葉がぴったり。
しかし、その中でも、60kmすぎと92km過ぎに、神様が降りてきて、体が軽くなった感覚を覚えてます。

42.195をはじめて走った時、こんな長いレース・・・二度とは知らない。とレース後半で思ったことを覚えてますし、
練習にしても、42.195を意識するときはかなりの練習量をつまなくては。。。。と思ってました。

それが、100kmを経験してみると、人間の限界が分からなくなる。
走れるんじゃん、とか、まだまだいける、こんな感じを抱くようになりました。
実際、100kmのときの42.195kmを通過するとき、、、、へぇ~ こんな感じで通り過ぎることができるんだ。と、比較的簡単に通り過ぎてしまったこをを覚えてます。

今は、毎日、20km以上。といっても、今の時期だけで、阿蘇カルデラスーパーマラソンに備えてのトレーニング。
今月は、いまのところ、319.7km(20日時点)けっこう走ってますが、あと10日で200km超を走りこむ予定です。

今までの人生の中でも、頑張っているほうだと思いますが、
長い距離を走ると、違う世界が見えるような気がして「いや見えてる」。

そこが超長距離のだいご味と思います。
今の体、172cm 体重:68-69kgくらい。体脂肪率:12-13%
けっこう絞れているからだとは思いますが、まだ、もうしこし絞っていく予定です。

6/7に阿蘇を走りますが、その先に見えるギリシャで開かれる「スパルタスロン」
ここへの出場資格をとった時、また、このレースを走った時、アスリート、鉄人、そんな言葉でよばれるような人材になりたい。そう思って走ってます。・・・・いかん、長くなってしまった。

苦手が、仕事や得意技になってくる。
人生っておもしろい。脳を使っていないことがよくわかるし、その可能性もよくわかる。
そんな感じですね。

これからも「鉄人系オジサンアスリート」を目指して、体を鍛えていきます。
応援よろしく。

阿蘇カルデラスーパーマラソン ナンバーカード引き換え券届きました。

阿蘇カルデラスーパーマラソンの ナンバーカード引換券が届きました。
1年待った、ナンバーカード。
昨年、バカな話ですが、直前の朝2:30ごろ、暗い中でトイレに向かう途中、突起物があり、転倒・・・しそうになるところを右足で踏ん張ったら、右も臀部を肉離れしたもよう。そのまま、なんとか足は動いたので、走りだしました。しかし、35km付近で、痛みが耐えきれなくなり、ついにギブアップ。マラソン初の途中棄権。

甲子園を目指した高校3年の時も、最後の夏は右ひじをやられて、背番号18で、最後の夏をベンチで終えた。
その時の悔しさ・・・これを思い出すくらい、悔しい50歳の阿蘇カルデラでした。

しかし、現在の気持ちの高ぶり方は、、この年にして、楽しい、いい気分です。
年取ってからでも、こんなチャレンジャブルな気分にさせてくれるスポーツに出会えたことはラッキーですね。

いざ、100kmの旅。そして、目指すはスパルタスロン。

今朝のランニング・・・雨の中だけど

いつもはFacebookだけですが、仕事の進捗および私の活動内容について、やはり、こっちにも書いていこうと思います。
といって、大したことではありませんが、今朝のランニング。

今朝は、大山祇神社までの15.5kmのコースと昨日思っていたのですが、
今朝の雨で、少しひるんでしまって、ランニングのスタート時間が30分ほど遅れました。
なので、12.5kmの少し短めのコースに、カッパを着て走ってきました。
これで、今月の走行距離は189.5km。いいペースで練習できています。

今朝の雨はけっこう強かったので、”練習休み”ということも考えましたが、
今晩〆切の仕事があり、また、会議も2つ(昼、夜)ほど入っているので、徹夜を覚悟して、明日練習を休めるようにと思い、雨の中出かけてきました。

走りだすといつもの通りで、特に違和感なく走れました。

よしよし。

あと、今日は午前中にお客さん一人。
午後に電話会議1件、
夜は鳥栖市手をつなぐ育成会の会議
そして、徹夜(できるかな?)の報告書作成作業になりそうです。

あ、そうそう、顧問先の資料で銀行さんへ提出する資料作成という仕事もありました。
これも、今日まで・・・ふう。

今日のランニング

先週の萩往還の後、一日休んで練習再開し、それからなんとか、朝か夕に時間をつくりランニング。今日の夕方のランニングでは、漸く疲れが抜けた感じがしました。今週は疲れが残る中、なんとか気持ちをキープし走ることができたので、今日までで今月”177km”。先週の70kmがあるので、すこし多めの数字になってます。

今週このままのペースを続け、19日の週から、もう一段、気持ちのギアを上げる予定です。500いけるかな。
仕事も猛烈に忙しくなっているので、どうなるか分かりませんが、今年のランニングの優先順位は高いですね。計画通りの練習ができますように(祈りと自己暗示)。 

報告書を書きながら、一人で感激(GCP Global Audit Guidelineの編纂について) 

 今日の午後、だいぶ遅くなりましたが、先日米国・ラスベガスに出張した時の派遣報告書を書いてました。報告書を書きながら自分で感激(涙腺に来ました)してしまいましたので、ここでも簡単ですが、その内容を報告しておきます。

 派遣内容は、4th Global Quality Assurance Conference(4thGQAC)の中で開催される、Global Audit Guidelien というセッション、パネルディスカッションへのパネラーとしての参加でした。
 このガイドラインは、米国、英国、そして日本のそれぞれの国の関係団体の代表者が参加して作成した、臨床試験の監査のガイドラインですが、もともと、日本のグループからの発案で、米国および英国の関係団体に話を持ちかけ、日本から提案した監査ガイドラインの修正、そして監査の現場で使用する9つの個別の補遺(アッペンディックス)を編纂したものです。
 私はこのガイドラインに積極的にかかわったメンバーではないのですが、いろいろな立場でこのプロジェクトの進捗と並走して今日に至りました。2007年に米国でこのガイドラインのプロジェクトを提案し、足掛け7年かけて、ガイドラインをほぼ完成させることができ、無事、4thGQACという国際会議でその内容を報告することができました。
 7年間という時間で、本当に沢山の方がこのプロジェクトにかかわり、特に最後のほうでの、JSQAのK林さんや英国のGさん、米国のEさんの活躍は素晴らしいものがありました。
 そして今までかかわってきたいろんな方の顔などが浮かんできて、派遣報告書を書きながら一人感激していた次第です。
 皆さんに最高級の賛辞を送りたいと思います。
  本当に素晴らしい仕事でした。
  お疲れさまでした。
  本当にありがとうございました。よかった。よくやった!!

パネルディスカッションでは、会場には約200名ほどの聴衆がおり、皆さんに感心をもって聞いていただきました。
今後のこのガイドラインがいろんな場所で活用されることを祈ります。

ちなみに、ガイドラインとそのアッペンディックスは、JSQA、SQAおよびRQAのそれぞれの団体の会員専用のサイトで閲覧することができます。

応援の威力 偉大です。

久しく、仕事のブログ書いてません。
近いうち再開したいと思いますが、とにかく忙しい・・・

それはさておき、
5/4 午前6時スタートの 萩往還70kmのレースに出てきました。
無事完走、ここでは”完踏”といいます。
山口市から萩にでて折り返し地点の前後の数kmは平坦ですが、あとはすべて昇ったり下ったり。
6つくらい峠を越えたような気がします。
ちゃんとトレーニングしてないと、途中で動けなく(歩くのもきつい)なりそうな感じのコースでした。
しかし、そんな中で、またいい経験をしました。
こんな感覚、走らないと、出場しないと分からないので、またいい経験をさせてもらったと、
大会のお知らせをくれたSN大学のK先生に感謝、感謝。

以下、今日のマラソンで学んだことです。

萩往還100マラソン大会は、250km、140km、70kmと片道のウオーキング。
250kmのスタートは5/2の18:00、140kmのスタートは5/3の18:00 いずれも世を徹して走るレースです。
250、140の速い人は、私たちの70kmスタート前にゴールしてしまいますが、多くの人は私たちがゴールする5/4の午後に、続々とゴーるしてきます。250kmの人は40数時間の永旅です。

私が朝6時にスタートして250と140の速い選手が続々と帰ってくるのですが、いずれも相当きつそうな顔。
我々70kmの選手は、250kmのランナーをみるとリスペクトモードになります。みんな、そのきつそうな顔をみて、”頑張って”と声をかけます。

私もご多分にもれず、すれ違うランナー全員に”頑張って”、”ファイトファイト”、”ライスランです”、”お疲れ様です”等等声をかけました。

そして、私のほうが調子に乗ってきた20km過ぎからは、その声を大きく、元気に言うようになると、すれ違う選手たちの顔が”笑顔”に変わるケースが増えてきました。というか途中からは、みんな笑顔を返してくれるようになりました。

マラソンって、一人(個人)のプレイのみのように観られますが、”応援”の威力、で ”応援されること” により出てくる”エンドルフィンですが、応援したほうにも”エンドルフィンが”出てくることに強く感じました。

調子にのって、大声で”ファイトファイト”とすれ違う250、140の人に声をかけていると、自分自身の調子もあがっていくのが分かりました。私は、そのまま調子に乗って、おそらく60km付近(7時間目)くらいまでは、快調に走ることができました。

みんながいるから、走ることができる。いいタイムがでる。自己ベストが出せる。気持ちよく走れる。
応援の威力と偉大さを、痛感した大会でした。
マラソンって、単純だけど、いいスポーツですよ。 年取れば年取るほど、味が分ってくるスポーツです。
チャレンジできている自分自身が大好きになります。うれしくなります。

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で、ちょっと続きで60km過ぎから
この後、最後の峠にたどり着く前、長~い 長~い上り坂。
反対方向に走っていた時は快調に飛ばしたコースに、帰りで一番きついところで苦しめられました。
山の中は涼しくていいのですが、ロードの長い上り坂と直射日光と気温上昇。
頭痛と吐き気が出てきてしまいました。軽い熱中症の症状でした。

あわてて担いでいるポカリをごくごく、ウイダーインゼリーを胃袋に放り込みましたが、
熱中症の吐き気の中、よけい気分が悪くなりました。
しかし、しばらく我慢をしていると、走れはしませんでしたが、頭痛と吐き気は改善してきたので、ときどき、走りながら、長ーい上り坂と格闘を続けました。

そして、ようやく最後の峠に差し掛かり、日陰に。
この時、森の中で会うランナーはみんな笑顔。ここまでくればもう大丈夫。
私もエンジンが再開し、ここから最後まで休まず、走りきることができました。

250の人たちからするとひよっこのようなコース、レースですが、
味わいの深ーい70kmでした。

さて、この後、6月は阿蘇とサロマ100kmにチャレンジ。
目標は11時間ですが、サロマでは10時間30分を密かに狙ってます。
そして、スパルタロンの資格取得。

そして、来年、萩往還250、
早ければ来年、再来年までの間には、ギリシャでスパルタスロン(アテネ→スパルタ)チャレンジしてみたいと思います。
宣言してるだけで、気が遠くなりそう。。

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今日も怒涛のような一日で

私自身、いろんな活動をしていて、毎日忙しいと感じながらも、
私は○○で忙しいんです。。。。という言葉が使いにくい。

私の一日を振り返ると
3:50起床 
4:00 GCP監査関係業務処理 (2案件)
5:30 ランニング 大山祇神社まで 15.5km 1時間25分
7:20 朝食
8:00 届きもの書類整理(区長業務、手をつなぐ育成会、監査関連データ)
10:30 仮顧問先との面談
11:30 鳥栖市手をつなぐ育成会 補助金実績報告、交付申請資料作成
12:00 鳥栖商工会議所 経営研究会 役員会
13:00 午後の会議予定 キャンセル(鳥栖三養基地区自立支援協議会運営会議、夏休み教室実行委員会、鳥栖三養基地区**会議?)
14:00 鳥栖市手をつなぐ育成会 補助金実績報告、交付申請資料作成(主に、鳥栖市手をつなぐ育成会予算、事業計画)
16:00 鳥栖市社会福祉課へ 同資料提出
16:30 フランスL-I社からの委託業務 処理・・・
20:00 事務所に来客(顧問先 経営改善計画について)・・・食事をしながら、打ち合わせ
21:30 打ち合わせ終了 (本日の業務終わり)
23:00 おそらく就寝

GCP監査準備3本、GMP監査報告 2本、GMP監査準備 1本、GMPセミナー準備、顧問先のバンクミーティング(3件分)
ここに、区長業務、育成会業務が加わり、更にランニング。

一番案内等の書類が多い、区長、育成会の資料の整理が追いつかなくなってきているのが、いかんなと思いますが、一面しょうがないとも思います。もし、仕事を拒まなかったら・・・6月いっぱいまでは紺状態は続きそうです。

商売繁盛・・・いいことも、わるいことも、丸ごと受け止めて、正々堂々といこう。

Toastmasters Divison F Speech Contest を振り返ると

遅ればせながら、Toastmasters Divison F Speech Contestの振り返り、
やはり、勝てなかったことは悔しい。
勝つつもりでさくらマラソンも欠場し、こちらのコンテストに出たのに・・・・

しかし、考えてみれば、やはり敗因はある。

その直接の原因は、集中力。
競技、競争の世界で、集中力の強さがそのまま、勝負に競り勝つ力となる。
このことは、今までも何度となく経験してきているのに、またやってしまった。

つまり、ありもしない余裕を見せてしまったこと。
スピーチの内容はともあれ、精神面でこの時点で負け。

勝ちたい気持ちを人に譲るように、余裕を見せてしまえば競り勝つことはできない。

考えてみれば、その原因、余裕を見せてしまった理由、集中力が足りなかった理由の原因もいくつか思いつくが、言い訳にしかならない。

アー悔しい。

ただし、私の場合は、あきらめないのが信条。(ただあきらめが悪いだけ)
日本一、世界一、往生際の悪い男になる。これが、私の人生の中の一つの信条。

次の機会があれば、またその次の機会があれば、勝つまで挑戦したい。
そうすれば、きっと勝てると思うし、自信にもなる。
きっと自信にして、もっと強い人間になってやる。

そして、100まで生きて、Nobel Price for Peace。

これが、今回のスピーチのおち。

ちなみに、原稿はこんな内容でした。
Title: My Fifty’s Ambition

指を鳴らす。・・・・
Dan Dan Didanda Shubidaden — Olee OO ee—(歌う)

This is the scene of whisky Commercial in 1993-94.
A young man came into the Bar and sit down in front of the Bartender.
He said, Today is my birthday, I am just thirty, I’m just turned thirty.
And The Bartender acted by Peter fork, He said, Ah Happy Birthday well is that mean you’ll be 31 next year.
The scene was a just casual talk at the bar to enjoy their drink.

However I memorized this scene very clear, because at the time of This TV commercial I was 29 years old and working at research laboratory in Tsukuba City. And the company I worked appointed me to move to newly established laboratory in Kansas, United State. I was just about 30.
At the time of this TV commercial, I was having a big dream to be a great business man, I wanted to study English, and I wanted to study United State, and I wanted to fly all over the world to make up the business. And also I was thinking, I will be a president of this company Hisamitsu Pharmaceutical some day. This was my ambition of my thirty (30). And these are the reason why I memorized this scene very clear, and I was saying “I’m just thirty”. (指)

Four years later, I was around 33-34 years old, and transferred again and delegated to the newly established section at Kyusyu Head office. At the time of my new work had stated, my younger children Youtaro was diagnosed Autistic he was two years old.

And Doctor said it is not curable disease and usually autistic children are hardly adjusts to the change of living environment. Doctor recommended me that you ‘d better not to move from here for a while.
Of course My wife was also so and deeply disappointed at the time.

As doctor recommended I decided not to move from I’m living. Even though I was asked from the company to move to Tokyo Office, or Factory in the United state or Office in London. These offers are happened every year but I denied because of this reason.

Like these situation my ambition was changed. I cannot move I cannot fry over the world as my earlier thought of ambition. But I did not know how I should do if the company officially appoint me to move.

From this time, I started to study national qualification of management consultant. I started to try this, because I thought I may be able to start my own business without movement.

However, this try was so difficult to me, because my basic knowledge was chemist and research in pharmaceutical area. It is far from the area I need to study. It took time a lot to pass this. But finally I could have passed this qualification in my age of 43 and started my current job in my age of 45 two years after I got Qualification.
And I saw a small light toward another ambition to be a great business man.(小声)

On the other hand,
Several months after my son was diagnosed autistic, I joined parent association of handicapped people and started supporting activity in the area of welfare. Now I do making an arrangement of welfare event such as music festival to promote interaction between general people and handicapped people. Because I believe that “Just knowing and Just understanding about handicapped people” is the best practice and most efficient way to achieve normalization that is the goal of welfare of handicapped people and this became one of the goal of my ambition.

After the birth of my son, the direction of my life tuned a lot. But my ambition was re-generated more strongly. Now I’m just fifty and thinking to alive another fifty years until 100 years old. But this way of thinking is kind of normal. Most of the parents of handicapped people like autistic want to alive more than their children, because we are anxious about their life if they become alone.

However, I found the way.
To alive another fifty years could give me a lot of chance to become great business man again. In order to be so, I want to study more, and train more physically.

I train by running more than 10km every day to make healthy and strong body. This gives me a tough mental strength and positive way of thinking.

Now my ambition is to build up the company hiring 10,000 handicapped people in next fifty years. I also want to expand my business to outside of Japan such as developing country in Africa and some place in Asia some day, and be awarded novel prize for peace in 2064 at my age one hundred (100).

Thinking these is so enjoyable to me and I would like you to watch me in my next fifty years.

Finally, I would like to say many thanks to my son giving me an energy and chance to have another ambition.

I’m just fifty, but I feel like a young man who said “I’m just thirty”.
So I enjoy my life with this memory. (指)

Dan dan dadan shubidaden …

Contest Chair

すでに一カ月が過ぎました。

すでに1か月が過ぎてしまいました。

会社の仕事で、やろうとしていたことがまだできていません。

いろんなことで時間をとられ、気になってしまい。
優先順位をつけられずに、目の前の仕事に取り組んでいます。

GxP QA コンサルティング、診断士業の仕事、今回本格的に取り組み出した翻訳業。
それぞれ徐々に独立体制を築いていきたいと思います。

早く準備しなくては・・・

また、GxP QAコンサルについてもブログ再開します。
しばらくお待ちください。・・・待っている人は? 実は私自身だったりして、私にとっては頭の整理ですが。

あけましておめでとうございます。

昨日、昨年の事業および個人の活動を振り返り、いろいろと書きましたが、

今日は、今年の抱負について、簡単に語っておきたいと思います。

今年も、例年通り、診断士としての活動、GxP QAコンサルとしての活動、その他、区長、手をつなぐ育成会役員としての活動をやっていくことになりますが、特に、会社の事業にもっと注力していこうと考えています。

会社の事業については、「経営の革新」を行うことを念頭に、
「事業の拡大」および「新しい事業への着手」を行っていきたいと思っています。

1.事業の拡大については
昨年末から着手した、GxP QAコンサル業務及び翻訳業務の本格的なテコ入れを行うことを念頭に、
1.まずは翻訳事業から生産性のあるものにしていくこと、
2.GxP QAコンサル業務をコンサルティングとQAサービスの二つのサービスに分け、
  それぞれで A.コスト、B.スタッフの養成(育成と外侮活用)、行っていきます。
 したがって、監査サービスについては値下げ?、コンサル業務については、現状か高めの値段設定 になるかと思います。
3.診断士業務を含め事業の方向性を「人材の育成(会社内・外)」に置き、
人の成長を支援する事業展開を行ってきたいと考えています。

「人を成長させるために自分自身も成長する」もしくは「人を成長させるということは自分自身も成長する(ということ)」こんな相乗効果も期待して、このようにしました。

2.新規事業への着手 については、
福祉事業、まちづくり事業を念頭においた、可能性探査に加え、
海外の障害者福祉の現状、特に発展途上国での知的障害者の状況に関する情報収集、
そして、BOPビジネスとしての、発展途上国への食料品の輸出(特に飢餓に苦しむ国)が可能とならないか、
を検討してみたいと考えています。

福祉事業については、純粋に会社の事業としてだけを考えているわけではありませんが、
実家付近でのグループホームの可能性を考えています。

以上ですが、
思っているだけでは、形にならないので、
まずは、事業の拡大について、経営革新計画を作成したいと思います。

急ぐべし。