Toastmasters Divison F Speech Contest を振り返ると

遅ればせながら、Toastmasters Divison F Speech Contestの振り返り、
やはり、勝てなかったことは悔しい。
勝つつもりでさくらマラソンも欠場し、こちらのコンテストに出たのに・・・・

しかし、考えてみれば、やはり敗因はある。

その直接の原因は、集中力。
競技、競争の世界で、集中力の強さがそのまま、勝負に競り勝つ力となる。
このことは、今までも何度となく経験してきているのに、またやってしまった。

つまり、ありもしない余裕を見せてしまったこと。
スピーチの内容はともあれ、精神面でこの時点で負け。

勝ちたい気持ちを人に譲るように、余裕を見せてしまえば競り勝つことはできない。

考えてみれば、その原因、余裕を見せてしまった理由、集中力が足りなかった理由の原因もいくつか思いつくが、言い訳にしかならない。

アー悔しい。

ただし、私の場合は、あきらめないのが信条。(ただあきらめが悪いだけ)
日本一、世界一、往生際の悪い男になる。これが、私の人生の中の一つの信条。

次の機会があれば、またその次の機会があれば、勝つまで挑戦したい。
そうすれば、きっと勝てると思うし、自信にもなる。
きっと自信にして、もっと強い人間になってやる。

そして、100まで生きて、Nobel Price for Peace。

これが、今回のスピーチのおち。

ちなみに、原稿はこんな内容でした。
Title: My Fifty’s Ambition

指を鳴らす。・・・・
Dan Dan Didanda Shubidaden — Olee OO ee—(歌う)

This is the scene of whisky Commercial in 1993-94.
A young man came into the Bar and sit down in front of the Bartender.
He said, Today is my birthday, I am just thirty, I’m just turned thirty.
And The Bartender acted by Peter fork, He said, Ah Happy Birthday well is that mean you’ll be 31 next year.
The scene was a just casual talk at the bar to enjoy their drink.

However I memorized this scene very clear, because at the time of This TV commercial I was 29 years old and working at research laboratory in Tsukuba City. And the company I worked appointed me to move to newly established laboratory in Kansas, United State. I was just about 30.
At the time of this TV commercial, I was having a big dream to be a great business man, I wanted to study English, and I wanted to study United State, and I wanted to fly all over the world to make up the business. And also I was thinking, I will be a president of this company Hisamitsu Pharmaceutical some day. This was my ambition of my thirty (30). And these are the reason why I memorized this scene very clear, and I was saying “I’m just thirty”. (指)

Four years later, I was around 33-34 years old, and transferred again and delegated to the newly established section at Kyusyu Head office. At the time of my new work had stated, my younger children Youtaro was diagnosed Autistic he was two years old.

And Doctor said it is not curable disease and usually autistic children are hardly adjusts to the change of living environment. Doctor recommended me that you ‘d better not to move from here for a while.
Of course My wife was also so and deeply disappointed at the time.

As doctor recommended I decided not to move from I’m living. Even though I was asked from the company to move to Tokyo Office, or Factory in the United state or Office in London. These offers are happened every year but I denied because of this reason.

Like these situation my ambition was changed. I cannot move I cannot fry over the world as my earlier thought of ambition. But I did not know how I should do if the company officially appoint me to move.

From this time, I started to study national qualification of management consultant. I started to try this, because I thought I may be able to start my own business without movement.

However, this try was so difficult to me, because my basic knowledge was chemist and research in pharmaceutical area. It is far from the area I need to study. It took time a lot to pass this. But finally I could have passed this qualification in my age of 43 and started my current job in my age of 45 two years after I got Qualification.
And I saw a small light toward another ambition to be a great business man.(小声)

On the other hand,
Several months after my son was diagnosed autistic, I joined parent association of handicapped people and started supporting activity in the area of welfare. Now I do making an arrangement of welfare event such as music festival to promote interaction between general people and handicapped people. Because I believe that “Just knowing and Just understanding about handicapped people” is the best practice and most efficient way to achieve normalization that is the goal of welfare of handicapped people and this became one of the goal of my ambition.

After the birth of my son, the direction of my life tuned a lot. But my ambition was re-generated more strongly. Now I’m just fifty and thinking to alive another fifty years until 100 years old. But this way of thinking is kind of normal. Most of the parents of handicapped people like autistic want to alive more than their children, because we are anxious about their life if they become alone.

However, I found the way.
To alive another fifty years could give me a lot of chance to become great business man again. In order to be so, I want to study more, and train more physically.

I train by running more than 10km every day to make healthy and strong body. This gives me a tough mental strength and positive way of thinking.

Now my ambition is to build up the company hiring 10,000 handicapped people in next fifty years. I also want to expand my business to outside of Japan such as developing country in Africa and some place in Asia some day, and be awarded novel prize for peace in 2064 at my age one hundred (100).

Thinking these is so enjoyable to me and I would like you to watch me in my next fifty years.

Finally, I would like to say many thanks to my son giving me an energy and chance to have another ambition.

I’m just fifty, but I feel like a young man who said “I’m just thirty”.
So I enjoy my life with this memory. (指)

Dan dan dadan shubidaden …

Contest Chair

11月17日・・・特別な思いの日

今日は鳥栖市議会議員選挙の投票日でした。
私は11/14に、期日前投票を済ませていましたので、今日は他の用事に専念しました。

”実は”といっても知っている人も多いのですが、
私も今日の選挙の中で投票される側になっていたかもしれないので、そのことについて、”特別な思いの日”になっているので、
それについて、つづっておきたいと思います。面白くない日記のようなものですので、暇な方は見てみてください。

昨年の12月に、私は今回の市会議員選挙に出る意思があるころを何人か、特にTCCのグループの皆様に伝えました。
もともと、このTCCという地元の街づくりに関する提言を主なテーマとする団体のなかから、私を市会議員に推す声があり、
以前から政治に関心がなかったわけではないので(どちらかというと強い希望もあったかもしれない)、家内とも”激しい”相談の上、一旦出馬を決意しました。

しかし、今年の3月末、最終的に出馬を断念することにしたのですが、
その間、さまざまな思いがあり、なかなか最終的な結論を出すことができず、苦しい日々が続いていました。

出馬する、出馬しない、それぞれのロジックが頭の中を交錯し、
自分自身の立ち位置を確認し、
応援してくれる方々の顔色をうかがい、
自分の気持ちに近い人、アドバイスをくれる人を探し、
思い悩む日々が続きました。

私の結論に影響を与えたさまざまな出来事について、

◆まずは、TCC内の出来事
TCC内の多くの人は、私の出馬に賛成というか、後押ししてくださる言葉を私に伝えてくれました。
しかし、一人だけ、N会長にそのことについて、直接話を伺ってみたいとおもい、
TCCの会議の時ではなく、商工会議所の年始交換会の際に、話しかけようとトライしましたが、無視されました。
もともと、当社の社員であった私自身、会長と話すことに多少の違和感があり、(おそらく会長も感じられていたと思う)お話はしにくい雰囲気もありました。

しかし、話しかけようとして、ほぼ無視されてしまったので、
ここで、私が出馬しようと思っていた大きな柱の一つが大きくぐらつきました。

◆障害者福祉のこと
私は皆さんもご存じのとおり、知的障害者の保護者の団体である手をつなぐ育成会の鳥栖の会長、佐賀県組織の副会長をさせていただいています。
こういう背景もあり、この方面では、私自身かなりの造詣、思いがあり、この方面について、やりたいこと、進めたいことはたくさんあります。

私を推す何人かの方は、この分野での活躍を期待していました。
しかし、市会議員として何ができるのか、現在の自分の活動と比較して、市会議員になった場合、何が有利なのかということも考えました。
結果、市議会の中の会派の問題を含め、市議会議員になった場合、ひょっとすると、考える政策が2つにわかれて議論されてしまう。
反対側の会派の方から、会派が違うというだけで、反対されてしまう状況をイメージししてしまうと、
その市会議員になった場合の効果について、魅力を感じれるほどではないと判断しました。

◆区長の仕事のこと
区の3役の方たちには、比較的早い段階から、この件について相談していました。
しかし、結論から言うと、まだ、出馬してほしくない。
なぜならば、次の区長をだれがするかが決まらないから・・・・こういう理由でした。

やめてしまえば、後はなんとかなるものとは思うものの、
次にこの役を引き受けてくださる人も見つけられず、どうしようか右往左往する間に、
区長の改選を決めなければならない3月も終わりに近づいてきました。

3/22の時点では、改めて3役に区長を辞めたい意向を伝えましたが、
結局そのあとの体制を決めることができず、
このことを最終的な理由として、
3月25日の週(どこで、連絡したかは定かに覚えていませんが)
TCCのS専務に電話で、申し訳ないが市会議員には出ないことにした旨を伝えました。

しかし、今は、区長として、やろうと思っていてできていないことも多いので、
今は、そちらのこともできるだけ力を入れていきたいと思っています。

◆仕事のこと
現在、中小企業診断士での経営コンサルタント業
そして、製薬会社向けに最近ブログでも連載を書いている GxP QA コンサルタント業を仕事として行っています。
議員になった場合の、これらの仕事がどういう影響を受けるのかについても、かなり考えました。

経営コンサルタント業については、
議員になっても、多くのものはできるような気がしましたが、議会が始まった場合、
まじめに政策等の検討をすることを考えると、いくらかの制限が出てくることが考えられました。

また、GxPQAコンサルタント業については、
専門的な領域ということもあるのかもしれませんが、議会の期間等、仕事ができない日(固定されてしまう日)と、
なかなか、お客さんの期待にこたえられない状況に陥ってしまうので、続けるのは難しいことが予想されました。

お客さんたちの顔を頭に浮かべると、
そこでは”出るな”と言われているような気もしていました。

◆市長になるということ
私自身もその思いはあったのですが、何人かの方も、議員ではなくて市長に出てほしいという人もいました。
私自身、議員というより、直接政策を作ることができる”首長”職については、大きな希望と期待をもっています。
なので、議員には出馬せず、直接市長選挙に出る方向性も考えました。

この方向性は、結構硬い気もした時期もあるのですが、
議員に出ないことを決意した段階で、一時的ではありますが、政治的な方向への意欲を示す場に出にくくなったこと、
通常の仕事が、以前にもまして忙しくなり、本当に、地域での政治的な活動、TCCやみらい会議といった、街への提言をする活動にもなかなか参加できなくなり、
このことも、比較的硬かった希望である”市長選”への出馬を試みるという気持ちも、だんだん薄れていってしまいました。

◆身近で支えてくれる人のこと
TCCのメンバーの方やT新聞の社長を始め、複数の方から応援する旨の言葉を頂いておりました。
しかし、最終的に、選挙活動に踏み切れなかったのは、私自身が地の出身でなく、
気軽に苦労を頼めそうな、地元の仲間がいなかったことも大きな原因の一つになります。

特に、一昨年亡くなられた義父の存在は大きかったかもしれません。
もし、義父が存命であるならば、このことを相談した場合、喜んで応援してくれた可能性があります。
残念ながら、義父が亡くなった後に、立候補を考えることになっていたので、

義父がもし存命であったなら、その手の手配のしかた、直接応援してくれる人などに関して、
もっと具体的なアドバイスや、後押しをいただけたのではないかと思います。

しかし、残念ながら、身近で私を支えてくれる、苦労をしてくれそうな仲間を見つけることができず、
(こんなところは、私の気の小さいところもあるのだと思いますが)
最終的に、議員であれ、市長であれ、政治の方面に行く決意をするまでには材料がそろいませんでした。

今となっては、出馬する気はないのかといえば、”ない”とはっきりいえるような気がしますが、
これらの状況が、私の現在の行動に繋がっています。

◆今後のこと
昨年の今頃、選挙に出ることを一旦決意しました。
そして、この後の10年は政治をやろうとおもってもおりましたが、

その後の上記のような状態から、今は
ビジネスの世界、障害者福祉・地域福祉の単独の世界などで、生きていくことを決意しています。

私にとって福祉事業にボランティア的な側面はありますが、これもビジネスと考えています。
私の目標、障害者雇用一万人の会社を目指して、これからもまっすぐにそのことを考えて、
私の強みを生かしつつ、自分自身の事業展開を考えていきたいと思います。

これから、私ももっともっと成長し、ビジネスを膨らませていきたいと思っています。
ここまで読んでくれる人はほとんどいないとは思いますが、
もし読んでくださった方がいれば、ご協力をお願いします。

私も精一杯頑張ります。
ひとつ、よろしく。

四万十川ウルトラマラソン 完走

「いやー きつかった」が、まず、第一の感想。
次に、練習不足だったけど、よく頑張った。が第2の感想。

この練習不足ですが、いろいろな思いがこの中に入っています。
今年は、とにかく怪我が多く、大会一か月前の左足の負傷、
その前の阿蘇カルデラでの、右臀部の負傷。
これらが原因で、大会10日前まで、十分な練習ができませんでした。

迷ったあげくで、大会への出場を決意、「やっぱり、でらんと気が済まん」と。

そして、なんとか順調に走りだしたものの、
やはり、体の節々で、不調を訴える声が聞こえてきて、
走りながら、かるい痛みとの格闘、調整。

一番ひどかったのが、予想外の右ひざの痛み。
おそらく、30km過ぎあたりから出だしたと思いますが、
走り方を調整しながら、痛みと格闘。

しかし、70km直前で、その痛みが激痛になり、
ついに歩き出してしまいました。

しばらく、痛みと闘いながら、走ったり歩いたり。
そして、72km付近で、ついにストップ。

ここで、だめもとで屈伸運動をしつこくやってみたら、
なんとか、走れるようになり、走りだす。

しかし、2kmほど走ると、また痛み出す。
また、屈伸運動。

これを繰り返しながら、最後まで。
本当に長い、永い、100kmのレースでした。

次? 萩往還(250km)を考えていましたが、
しばらくは、考えられないですね。

しかし、来年、阿蘇、サロマ湖の1月に2回の100kmマラソンは、ちょびっと考えてます。
阿蘇で体が壊れないくらいに体を鍛えないといけないので、これも、結構きついかな。

さて、どうするでしょう。じっくり考えます。

リハビリラン 11日目

リハビリラン11日目 走りだしの足の違和感は、きついけど、
しばらく、まだ付き合わなきゃいけない「友達」。と思えば、なんとかついき会える。

きつさや試練を与えてくれる友達は、自分を成長させてくれている。
・・・そう思えるから、いやな相手でも友達と思える?

卵と鶏の話のようだけど、これが人生。

楽しく解釈できるものは、すべて楽しいほうに解釈しよう。

少しでも人生を楽しく過ごしましょう。

四万十川ウルトラマラソンまで、あと72日。

楽しみにしている花火大会

私は小郡の花火大会に毎年、よっぽどの用事がない限り、いっている。
理由は、息子が、花火大会が大好きで、連れていくと、きらきらしているから。

ことしは、10日土曜日。いつもなら、第一土曜なので3日あたりのはずだったのに、今年は、1週間後になってしまっている。

それでも、いろんな用事をさておいて、花火大会にいくつもりだったけど、
つい、トーストマスターズのスピーチを引き受けてしまった。

行った断ってから、いいよ、と言い直してしまい。
これが、後悔を増幅しているかんじ。

今日の筑後川の花火大会のように、雨で延期になってくれるといいな。
こう思っていると、そうならないのが常。
しかし、心からお願いしたい。

リハビリラン 7日目

リハビリラン7日目 ということは、
7日連続、休まずに練習したということ。

とりあえず、よく頑張りました。
トレーニングの質としても、できるだけ休まないことが一番のポイントと思ってます。

今日は、いつものリハビリランコース。
どのコースにも、一応名前が付いていて、最近走っている5.6kmのコースは、”山光苑”という名前のコース。
一番長く走っているコースで、早い時は25分くらいで走ったこともあるこーすで、最近は30分くらいで走ってるコース。
途中、ちょうど折り返し地点あたりに、山光苑という名前の料亭前があるので、付けたコース名です。

調子の悪い時、調整のとき、いつも、このコースで体の状態を試します。

さて、今日は、というと。
歩かずに、最初から最後まで走れました。
タイムも38分45秒。
違和感のレベルはあまり変わらないけど、タイムは短くなってきているので、良くなってきているのでしょう。

やはく良くなって、しっかり練習できるようになりたい。

四万十川ウルトラマラソンまで、あと77日。

予定変更の変更 平成25年1月30日

もともと、今日はビジネススキルアップ研修という佐賀県就労支援室の研修(企画運営:佐賀県中小企業診断協会)で視察先の佐賀西武コロニーに行く予定を立てていた。

その後、最近になって、いろいろ仕事が立て込んできたので、
視察への参加を断念し、事務作業を行うことに昨日決めた。

場所は、佐賀市のアイスクエアビルの5階事務所でと思っていたが、
急ぎの仕事が2件ほど入り、自宅作業に切り替えた。

もともと、自宅事務所での作業が最も効率的に仕事を進められる場所ではあるが、
佐賀市産業支援相談室(佐賀6次産業化サポートセンターと併設)も私の主管になるので、その場所で・・・と思い 
家を出る準備をしているところで、電話。。。。自宅作業に切り替え。こんな感じ。

いまやっと電話の案件が処理できたので、
これから、今日もともとやろうと思っていた仕事に着手予定。

今日は、
1. 6次産業化サポートセンター業務 
   6次産業化プランナーの評価 (明日九州農政局提出)
   法認定企業のフォローアップ状況の報告 (明日九州農政局提出)
2.来週の東京での監査(臨床試験 実施医療機関の監査)の準備
3.顧問先の経営理念作成指導 などなど、

やって、夕方、息子を学校(大和特別支援学校)に迎えに行き、本日の予定終了だけど、
1.が終わって2.までいけるかどうか。いけないんだろうなぁ~。

ちょっと疲れ気味

私の場合、”疲れ気味”といっても、精神的な面が多いような気がします。

今期の私の行動指針は、”安くておいしい店”でがんばる決意をして、4カ月ほどたっている。

仕事をいただいて、単価ではなく、品質、誠意で勝負してきた。なので、仕事を時間単価でいくと、どれくらいになるのだろう・・・と考えると、

夜昼、土日関係なしに働いているので、最賃をクリアできているかどうか・・・とまではいかないにしても、かなりハードな仕事が続いている。

単に現在は無料(相談)の仕事も多い。無料だからといって、困っている人、会社は見捨てておけないので、これも全力でサポートしている。

しかし、このペースにも、確かに良いところはある。忙しいこと、知らないことに触れる機会が増えることで、またいろいろな人に会う機会が増えているので、自分自身が成長できていることが、短時間ではあるが感じることができている。

このペース。もう少し続ける必要があるようである。フリーで動いてはいるが、確かに仕事は増えている。

まだしばらく、正念場・・・は続きそうです。

がんばります。でも、ゆっくり本を読む時間くらいはほしいな。

(本をだいぶ積んでしまっているので)

おはようございます と エンドルフィン

休みがちになってしまうジョギングではあるが、体調をキープするためには、私にとって必須のアクティブティ。

このおかげで、ジョギングを始めてから、おそらく10年あまりにはなると思うが、その間、熱が出たことはない。

風邪かな・・・と思うときは2-3回あったように思いますが、それでも、”走れば治る”でなんとかしてます。というか、なんとかなってます。

なので、私にとって、止められないアクティブティなんですが、走りながら感じる面白い現象があります。

私の場合、朝走ることが多いのですが、朝走っていると、たくさんの散歩している人に出会います。

会うたびに、知らない人であっても「おはようございます」と声をかけながら走っています。と不思議なことが起こるのです。

「おはようございます」と声をかけた瞬間から、2-3秒~10秒程度。体が軽くなります。

多分、体の中に”エンドルフィン”なる物質が放出されているのだと思います。

マラソンで、「沿道の方の応援があったから・・・走れました」というコメントをよく聞きますが、これは、お世辞ではなくて、本物。

沿道の人が、ランナーにエンドルフィンをあげているような感じ。

これを、朝の「おはようございます」で感じているのです。

と思う間に、6時になりそうです。私のジョギングの時間。今日の予定は8.5km。

がんばります。

<本日の予定>

午前中:C社、S社のデータ整理。再生支援関連。

午後:F社訪問(これも再生支援関連)

日本政策金融公庫:支援先への融資に関する相談。

マーけティングネタ100

HACCP勉強会用資料・・・ などなど。

今日もいろいろありました。

■今日は、朝4時に起床。(いつもの通り)

目覚めは悪く、エンジンがかかるのに少し時間がかかったけど、F社データの整理。(報告書作成)

■そして、朝6時30分から、クローバー朝市。

今日は出店者が少なかったのと、寒かったので、いまいちの朝市でした。もっと出店者が増えてくれるといいけど、なんとかして増えてくれるといいのですが。

■9時ごろ帰宅して、F社のデータ整理の続き。

■12時から、野球。久しぶりで、ボールを取る、投げるの動作がなかなかしっくりこなかった。バッティングは、最近、素振りを少ししていたので、2打数1安打。ピッチャーがよかった割には、なんとか仕事できました。

■その後、3時ごろ帰宅後、今度は、法人の税務申告書の作成。今年は、まだ、昨期は、180万円ほどの赤字なので、まだ、税理士さんに頼まず、今年は自分で資料作成をやってます。

別表(資料)が多いのに苦しんでます。

来年は、決算書の作成に関しては、税理士さんに頼もうかと考えてます。

◆それから、あそぼう会の古賀さんから相談がありました。

夏休み教室のニーズの件。福祉事務所に育成会からも要望を出してほしいとのことでした。

■現在、育成会自身が会員数が少ないため、直接的なニーズがつかめない状況であることを説明し、一緒にニーズ調査をすることで、話を進めることにしました。

目標は、6月初旬ぐらいまでに、データをまとめて、福祉事務所へ要望を提出。そして、同時に、学童保育のニーズもつかみたいと思ったところでした。

連休明けの役員会の時に、話をして、進めていきたい。

◆育成会の活動も、これかな。と思う瞬間でした。この気持ち、わかるかな?

●明日から、アメリカ。SQAのAnnual Meeting に参加してきます。

仕事にできるかどうか。。。私自身の可処分時間が少なくなってきたので、難しいところはあるが、とんとん経費ぐらいの仕事はしたいと思っている。

1年ぶりのアメリカだけど、多分、いくと、もりもり、そっちのしごと貸したくなるんだろうな。。。

それで、日本に帰ると、また、診断士。仕事は仕事。どちらも仕事。うまくシナジーを作れるといいのだけど。。。 来年11月の3rdGQACまでは、この混沌とした感じがつづくのかな。。。。お人よし。

それは、さておき、そろそろ明日の支度をしなくては。

明日は朝1番の飛行機。次のブログはアメリカから。かな。